「自伝及び中米内戦体験記」7月16日

「春秋一枝」

 

イタリアに行ったエノクからはほとんど毎日手紙が来た。まるで日本にいて彼の手紙を待っていた超遠距離婚約時代のように、離れていたから味わえる、かぐわしい恋の気分に浸りながら、私は毎日手紙を書き、毎日手紙を待った。現実に余りにいろいろなことがありすぎて、遠距離恋愛のほうがむしろ心が安定するみたいだった。

 

そんなある時、本を読む目を休め、外をなんとなく見ていたら、面白い木を見つけた。日のあたるほうは緑が茂り、日陰のほうは紅葉して、その間には花が咲いている枝がある。ええ?なんだこれ・・・と思った。

 

この木一本で春夏秋冬を演じている。東西南北に四季がある。そうかあ、なるほど、と感心した。エルサルバドルは赤道に近い、気候の変化を余り肌に感じない国である。ちょっと高地に行けば一年中避暑地みたいな趣がある。寒暑の差は激しくないが、緩やかな温度の違い、雨や風の季節がある。

 

木はいっぺんに葉を落とさず、いっぺんに花を咲かせず、いっぺんに実りの季節を迎えない。木の周りをぐるぐる回ると、一本の木で春夏秋冬を見ることができるらしい。はじめこれを発見したとき、私はうれしくて歓声を挙げた。

 

興奮のあまりこの発見を誰かに知らせようとあちこち見回して思ったけれど、誰もいなかった。そういえば、この国の人々にとって、いちいち季節が変わるほうが珍しいのだ。

 

面白い国に来たなあとそのとき初めて思って喜んだ。飽きもせず、ひまさえあればその木を眺め、ずいぶん長い間、面白がっていた。その木一本のことだけでも、長いエッセイが書けそうだった。私はその木の枝をスケッチし、「春秋一枝」となづけた。後に私が絵を描きはじめてから、ずっと私の絵の中に登場する植物である。

 

コロニアニカラグアの、そのあたりは緑が豊かだったから、これから暇つぶしに自然の観察もしようと思い、急に元気になった。

 

主人の実家の家族たちが、よく来てくれて、散歩やピクニックに連れ出してくれた。とても気遣って私のことを大事にしてくれる。タマルとか、ププサとか言うエルサルバドル料理を作って持ってきてくれるので、私もひまに任せて、本を見ながら作ったパンをみんなに配ったりして、親戚付き合いも軌道に乗り始めた。

 

義弟のダリオがとても親切で、よくドライブにも誘ってくれた。彼の家族から親戚付き合いのノウハウも学んだ。私の実家は親戚付き合いをまったくしなかったから、これも新しい学習だった。

 

舅はいろいろの仕事を手がけた人で、学歴など何もないが、季節労働者から身を起こして、最後は大使館づとめをして年金暮らしをしていた。文字の読み書きも独学で、習ったスペイン語しか知らない私には時々何を言っているのかわからなかった。彼は各種仕事を転々とし、途中で覚えたテーラーの技術を生かして、人のものを縫ったりして稼いでいた。家族の衣類はみんな彼が作るらしい。主人がはいていたズボンが格好よかったので、ちょっとお願いして私のズボンを作ってもらった。なんだか舅は緊張して、それでもうれしそうに作ってくれた。私は確かに、この人たちに愛されていた。

 

間の抜けた12月がきた。厳しさも張りもない、かつて東京の実家の物置に起居してストーブをじっと見つめて孤独にバッハを聞いたあの時代の苦悩も緊張もない、真夏の国の12月だった。霜も降りず、花も枯れない12月。

 

町を歩いた。12月だけ臨時に立った膨大な市場に、所狭しとクリスマスの飾りが売られていた。地べたに敷いたシートの上に素朴な顔の泥人形が並んでいた。キリスト誕生の厩を模した泥人形はいかにもデフォルメで面白かった。巨大な赤ん坊のキリストの周りにその半分ぐらいの母マリアと養父のヨゼフが祈りの姿勢でたっていて、牛とロバが座っている。羊も羊飼いもデフォルメで妖怪みたいな人形や、ま、なんと表現したらいいのだろう、日本のお雛様に相当するのか、そこには「Defensa雛」とでも呼べそうな、あの軍服姿で銃を構えた物騒な人形まである。

 

これが何でクリスマスだ!そう。内戦はクリスマスの飾り人形にまで入り込んでいた。

 

主人が、12月3日になってやっと帰ってきた。彼はすごいお土産をイタリアから買ってきた。折畳式のイーゼルと画材道具一式。当時私は絵を描いてはいなかったが、東京で出会ったときに私がスケッチなどをしていたのを覚えていて、私が絵を描くだろうと思ったのだろう。それまでにイーゼルを使って絵を描いたことなどただの一度もなかったけど。ただ、まともな仕事もなく、ほとんど何もしないで家にいなければならない私を気遣って、主人が買ってきてくれたのだ。絵ならスペイン語ができなくてもできるからね。

 

それから、もっとうれしいことがあった。彼はイタリアの帰りにスペインを回り、当地で結婚して医者をやっている自分の長兄を訪問したついでに、私のかつて日本で出会ったスペイン人のシスターである命の恩人のお兄さん、アントニオに会ってきた。

 

アントニオ!

 

院生時代の23歳のときに、ひょんなことから実家を出て暮し始めた女子寮で出会い、苦悩の中にいた私を救った一人のスペイン人のシスターがいた。彼女が日本から去って後、私は彼女を慕ってスペインまで会いに行った。野越え山越え日本海を超え、ナホトカからソ連経由でユーレールパスで欧州を縦断し、スペインにたどり着いて、いったんシスターの実家にお世話になり、アントニオと出会った。彼はシスターのお兄さんで、私が1年もスペインに遊学していたとき、その家を拠点にしていたので、ずいぶん世話になった。出会って1年後、彼等と別れて日本に戻ってから、10数年、私は数奇の運命を生きた。

 

人生のある一時期、私を救ってくれた彼等のことを忘れた事がなかった。アントニオも私を覚えていてくれた。彼は結婚祝にスペイン刺繍のテーブルクロスをくれた。繊細な美しいアラブの影響を受けたスペイン刺繍だった。

 

うれしかった。世界でたった一人、私たちの結婚を祝ってくれた人がいる、それを知ることができたことが、そのときの私を幸福にした。すべての人の反対を押し切って勝手に選んだ道とはいえ、私は余りに孤独だった。アントニオのテーブルクロスをひざにおいて、万感の思いが体中を巡り、随喜の涙をこぼした。

(以下の写真は唯一の結婚祝い、アントニオのテーブルクロス)

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「本格的な新婚旅行」

 

「新婚旅行をしようよ」、とエノクが言い出した。今でも名前もわからないあの小さな地方の役場で、貧しい結婚式をあげた後、私たちは何度か「新婚旅行」と称する小旅行をやった。リベルタの海岸に別荘を持つ友達の好意で、数日海に遊んだことを皮切りに、グイハ湖という古代の遺跡のある場所を訪れて丸出しの石器を拾って楽しんだこともあったが、なんだかひまを見て遊びに行くピクニックの域を出なかったから、あまり新婚旅行という気分にはなれなかった。

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これはエルサルバドル、チャルチュアッパ の遺跡。当時内戦ゆえに「観光名所」とは宣伝されていなかったけれど、私がこういうの大好きなので、よくいろいろと連れて行ってくれた。だからこれも一種の「新婚旅行」。

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これのエルサルバドル内。指でなぞっているのは、古代の文字らしい。当時は少なくとも、誰もこれを大切とは思っていなかった。

 

12月には学校もクリスマス休みになり、新学期は2月からなので、出張から帰ってやっと彼は時間が取れたのだ。それで今度は2週間ぐらいグアテマラ旅行をしようといい始めたのである。

 

日本でこの手の旅行をするには準備にものすごく時間をかけ、練りに練って計画するのを知っている私にとって、これは今日考えて、明日出発というような、また型破りの常識はずれの旅行だった。それがエルサルバドル式かどうかはしらない。少なくともそれは主人のやり方だった。

 

じゃ、決めた!とかいって、12月24日のクリスマスイヴの朝、サンサルバドルからテイカブスという小型のバスで、グアテマラシテイーに到着し、その足でアンテイグアにいったら町中は化け物だらけだった。さまざまな化け物のお面をつけた仮装舞踊風の祭りで、これはどう見たって、どこにもキリスト教的要素なんかない、異教徒の祭りだ。

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(説明のしようがありません。)

 

エロテイックでもあり、グロテスクの極地ともいえるお面の渦にかなり腰をぬかし、次の日のクリスマスにはアンテイグァの廃墟を見学。すごい強行軍でグアテマラシテイーに逆戻りして、早朝たたき起こされて、いったいこれからどこになにしに行くのか知らされないまま、観光客を満載したバスに詰め込まれて、フローレスと言うところにむかって走った。

 

密林は、やしの木の群生地みたいにやたらにやしが目に付く。種類もいろいろの、やし、やし、やし。色も違う。黄色の、緑の、茶色の、紫がかったの。窓にかじりついて、後から後から飛んでいく車窓の景色に食い入った。あっちのやしも姿がいいなあ、こっちのやしもきれいだなあ。途中の農家で食事をしたが、まるでレストランという感じではない。なんだかそこに農家があったから、ちょっと食事でもお世話になろうみたいな感じである。

 

トイレはどこかと聞いたら、そこいらでしろといわれて、それがここのしきたりかと観念して自分も急遽自然人になった。ジャングルの旅なんだから、何でもありだ。湖水があったけどワニにお尻を食われやしないかと心配しながら、おしっこをした。

 

飛行機なら1時間という距離をわざわざバスで1日がかりというのも新婚旅行らしくないが、密林の中をこんな調子で走るのはむしろ私達らしくて気に入った。

 

途中フェリー(鉄のいかだ)に乗って、まったく手付かずの自然の中にある大きな湖を渡ったけれど、湖の名前なんかあったかどうだか、とにかくあんなジャングルの中のものにいちいち名前なんかなかったのかもしれない。かなり疲れていて記憶が薄れている。

 

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(これ、昔パノラマ写真なんか取れなかった頃の、苦心のつなぎ写真。)

 

夜の11時という時刻に主人のひざにだらしなく寝ていたのを起こされて、やっと目的地のフローレスについた。ちょっと出発のときから体に異常があったので、せめて温かい水の出るホテルに泊まりたいと主人に言ったのだけれど、せめて湯の出るホテルどころか、ホテルそのものがありそうもない徹底的に自然そのままのジャングルの中の湿地帯である。真っ暗の中をやっと目が慣れて見つけた小屋みたいな宿(ホテルと言ってもいい)は満員で断られ、そのホテルの男の案内でたどり着いたのが、電気もない木賃宿だった。

 

クリスマスにホテルを断られたなんて、マリアとヨゼフみたいだなんて思いながら、寝ている枕元近くで、湖水の波音がざざーざざーときこえる。日本国内の旅行で感じる旅情とはちと違う。猿人になったみたいな気分。

 

フローレスに何しにいくんだろう。ジャングルだけでも十分すごい旅だった。

 

くたびれきって次の朝は寝坊し、はじめのバスが間に合わず、やっと2番バスに乗り込む。バスに乗って初めてテイカルの遺跡に行くということがわかった。

 

彼とであったときから中米の歴史に興味を持って本をかき集めて読んだから、テイカルの遺跡を知識としては知っている。

 

ああ、そうかとはじめて納得した。バスに乗っている人は、全部白人で、英語なまりのスペイン語を話していた。当時はやったヒッピー風のぼろぼろのパンツ姿だからアメリカ人だろう。

 

やっとテイカル国立公園の入り口についたら、むすっとした男が、むすっとしていった。「アメリカ人は入場料を払え。」という。え?一瞬まごついた。私もアメリカ人の一種かいな。

 

ここで「アメリカ人」というのは「外国人」のことらしいということに気がついた。アメリカ人扱いを受けた私たちは顔見合わせて、当惑。

 

ホテルを確保しようと思ったが、それこそ本物の「アメリカ人」が占領していて、やっぱり私達みたいな宙ぶらりんの人種は泊まるところがなかった。仕方ないから主人がホテルに交渉してやっとハンモックを二人分借りて、それをあいていた東屋みたいなところにつって、その晩はハンモックで寝ることになった。

 

ありったけの衣類を着込み、蓑虫みたいになってハンモックに身を横たえ、耳元でぶんぶん言っている虫の声に苦しめられ、ジャングルの中の怪しい動物の咆哮を聞きながら、本来の意味のきわめてromantic(伝奇的)な夜を過ごした。

 

隣で主人が、ハンモックの網の隙間から目だけ出して、面白そうにウッキッキと笑っている。まるで「主人」なんて言う言葉に合わない人物なのだ。

 

それにしても、エルサルバドルの人はみなものすごく好奇心が強く、歩いていると寄ってきて、にこにこしながら親しげに話し掛けてくるのに対して、グアテマラの人はどうしてこんなに無愛想で、外国人に対して冷ややかなのだろう。

 

何を聞いても声を出さず指を指すだけ。しかもひょっと気が付いてみると、彼らの底意地悪そうな猜疑心に満ちた視線がこちらを見ているのに合う。そのとき私は彼らグアテマラの先住民が、アメリカの軍事援助を後ろ盾にした政府の弾圧にさらされ、殲滅の危機にあっていることなど知る由もなかった。「アメリカ人」の一種と認定された我々に敵意を示すのは、当然だったのだろう。

 

写真を撮ろうとしてもすっと後ろを向いてしまい、視線が合ってもにこりともしない。自分に誇りを持っているのだろうなあと私は解釈し、建物以外は写真を撮らず、ひどく遠慮深くなった。

 

イカルの遺跡は壮大で、申し分なく立派だった。勾配の急な、歩幅がものすごく広くないと上れない階段を股が裂けるような思いで上って神殿の頂上にたどり着くと、目の前に同じ形の神殿が、どどーんと建ち並んでいる。其の圧巻にウワッと思わず声を発し、呆然として眺める。

 

見晴らす限り、ある秩序だった神殿群が雲にそびえている。当時のこの神殿はまだ内戦のためか修復もしていなかったから、階段は磨り減っていて、上りにくかったし、コンクリートで固めたりしていなかったので、苔むしていて、古代のロマンを満喫するに十分だった。

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イカル神殿。当時は観光名所としての整備がされていなかった。

 

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しかし計画を立てずに強行軍で旅をしてきて、トイレの設備もなく、もちろんシャワーも浴びず、満足なホテルにも泊まらなかったことがたたって、私が出発のときから抱えていた病気が悪化して、何が起きたのだと思うほどの激痛を下腹部に感じてどうにも我慢ができなくなり、少し日にちを繰り上げて、緊急の場合だ、お願いお願いといって旅行客を押しのけて、予約もしていなかった飛行機に跳び乗って、グアテマラシテイーの病院に駆け込んだ。

 

1週間の不潔がたたって膀胱炎になっていた。ロマンも糸瓜もありゃしない。飲み薬で何とか収まったが、4日間もグアテマラシテイーにくぎ付けになってしまった。

 

くぎ付けになりながらも、もったいないから、歩き回る。ポポルブフ博物館、国立博物館、動物園、自然博物館、美術館などを、薬のみのみ見学して回った。ポポルブフというのは、古代マヤの神話伝説を書いた書物である。聖書みたいなものらしい。

 

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グアテマラ博物館にある模型:テイカル遺跡の全景(残念ながら写真が消えかかっていて、よく見えないけど)

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 日本で見つけて持っていた「ポポルヴフ」の日本語版。

 

マヤを征服したスペイン人が後に布教のために送り込んできたカトリックの神父さんがいた。彼は布教の邪魔だと考えて、古代からの歴史をマヤ文字で記した書物を収めた図書館を、悪魔の書籍と称して焼いてしまった後、多分マヤの生き残りの神官から口述筆記したものである。

 

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(写真はティカル全景を、パノラマ写真が撮れない当時のカメラで、一こま一コマ映してつないだもの。現在の家の居間の一角に飾ってある)

 

 

だから博物館はマヤの古代にかかわるものを集めたものだ。面白いものをたくさん見たが、何しろ強い薬を飲んで朦朧としていたり、吐き気を催していたりしながらだったので、残念ながら何を見たか覚えていない。

 

それからカミナルフユという、古代遺跡の発掘現場を見学した。そこは市の中心から少し離れていて、外見だけ見ると、古墳みたいなものがそこここにあるだけで、見るべきものがないかなと思った。しかし、そこになんとなく立っていた男に、カミナルフユはこれだけかと聞いたら、例のむっつりしたグアテマラ的な無表情な顔をして、黙って、ある方向を指差した。

 

トタン屋根が見える。とにかく近づいてみたら、すばらしい住居跡があった。部屋がたくさんあって、トンネルもある。神殿の跡だろうか、ミダス王のラビリンスを想起させる、興味深い遺跡だった。

 

帰りは健康のために、飛行機を使ってエルサルバドルに帰ったが、あの空港はまったく世界でも数少ないほどの、おんぼろ飛行場だったろう。飛行そのものもアクロバットじゃあるまいし、生きた心地もないほどのゆれで、到着したエルサルバドルがなんと文明国に見えたことだろう。

 

こうして私たちのきわめて野蛮な新婚旅行は終わった。新年は7日から補習校が始まる。延びに延びた学芸会の脚本を書こうと、薬で朦朧とした頭で思った。

 

 

 

「低開発国に滞在する日本人の実態」

(現地人と結婚した日本人として、自称高級日本人たちから、私は妙な扱いを受けた。)

 

以下は、1970年代、私がエルサルバドルに滞在していた時代、当時のエルサルバル日本人会の会報、“ベラネラ”に載ったある日本人のドイツ文学者と称する人物の記事の要約である。

 

「ドイツにいたときは日本人がいかにドイツ人と違うかということを考えたけれど、この国に来たら逆に、日本人とドイツ人はどんなに共通点を持っているかということに気がついた。

 

この国の人々は平気で路上につばを吐き、音楽会場ではお互いにおしゃべりし、物を食べて楽しんでいる。ドイツ人は町を清潔にするという公共心、音楽会場では音楽を聞くことを楽しむことに徹底する精神を有するが、この国にはそれがない。規律も礼儀も公共心もない。そしてこれはラテン人の特徴である。

 

日本人も音楽会場では生真面目で規律を守ることにおいてはドイツ人と共通点がある。」

 

この記事に出会ったとき、私は複雑な気分を感じた。私の知っている「日本人」、そんなに「真面目で規律を守るドイツ人」に似ていたっけ?

 

私はカトリック信者の家庭に生まれて、子供のときから教会に行っていた。その教会は歴代の主任司祭が「ドイツ人」だったから、かなり「ドイツ人」との付き合いがあった。さらに、小学校はカトリックの小学校で、学校の隣にあった教会の主任は、イタリア人だった。第2次世界大戦のとき、ドイツ、イタリアは日本と同盟国だった関係で、大戦中にこの2か国の神父さんは追放されたり抑留されたりしなかった。だから私は「外国人」と言えば、ドイツ人とイタリア人しか知らなかった関係で、彼らに関して無知ではない。

 

それに、私が育ったころの同胞日本人は町をきれいにするという公共心なんか持っていなかった。つばも立小便も当たり前にそこいらで平気で町でやっていた。人前で手も当てずせきやくしゃみをして平気だし、ところ嫌わず煙草の吸殻を捨てるし、人が見ていないところは家庭用のごみが散乱している。団地の植え込みの裏側なんか、みてごらん。人気のない公園の隅とか、行楽地はごみの山だ。今だってそうでしょ?

 

ドイツ人は、あんなことしないよ(一般庶民は知らないけれど)。日本人は特に清潔でまじめかどうか怪しい。私にはエルサルバドルの民衆と大して変わらないように見える。

 

もっと言わせてもらえば、日本人は高い水準の学校教育と文化を十二分に受けられる環境にあり、エルサルバドルは、教育の恩恵にあずかっていない、日本人となんか比べようのない貧困層を人口の50%も抱えた国なのだ。それを問題にしないで、日本人が教養あって、エルサルバドル人は、サル?どっちがどうのと議論できない状況でしょ?

 

日本人は、確かにまじめで「人が見ているところでは」規律を守る民族かもしれないが、規律に対する考えかたはドイツ人とは違うはずだ。

 

日本人はもともと伝統的に、劇場でも相撲の見物でも、桟敷席を設けて物を食べ、談笑しながら雰囲気を楽しむ民族だ。だから強力な規制さえなければ、花見の席みたいに朗らかにげらげら笑いながら、本来の目的なんかそっちのけに、周りの人たちと手拍子打って飲んで騒ぐ民族である。(別にそれが悪いと言っているんじゃなくて、わが民族はとても愛すべき民族だと思うよ。)

 

我が同胞日本人は決してドイツ人のように、深刻に規律を守ることを人類の義務みたいに考えて行動をすることはないだろう。

 

なお、付け加えれば、音楽会の切符は日本では高くて、誰でもがいける場所ではない。エルサルバドルのように1枚500円にしてごらん、あらゆる客層が現れて、どの国よりもものすごくなるから。

 

また、もう一言付け加えるならば、日本人の「教養ある」人が、ところきらわずあたりに痰を吐かないと同様、エルサルバドル人のうち「教養ある」人もところ嫌わずあたりに痰を吐いたり立小便をしたりしない。痰を吐くのは「ラテン的」だからではなく、それは教養の如何によるのである。

 

なお中米人をラテン人と称するのは間違いである。彼らはヨーロッパとは独立した独自の伝統を持ったアメリカ先住民、もしくは先住民と征服民のスペイン人との混血である。ラテン人と呼べるのは、ラテン語を母体とした言語族で、それはスペイン、ポルトガル、フランス、イタリア、ルーマニア人である。その5ヶ国の人々を、この筆者は、このように公然と「規律を守らない民族」として侮辱の対象にする勇気があるの?

 

公の場に発表して、これだけ一民族を侮辱できるのは、相手が「白人」ではないからではないの?「ドイツ人」と日本人が「似ている」と思いたがっているのは、なぜなのだ?白人と似ていると指摘したいの?

 

私は日本人で日本人であることをやめようと思ったことはない。母は自分を武士の子と称して誇りにしていた。母が武士の子なら、私は武士の孫で、遠い祖先の系図の中に西行が載っていることを誇りと考えていた母から、馬の骨とののしられたアメリ土人の妻となっても、別に国籍を捨てなかった。

 

アメリ土人にはアメリ土人の誇りがあり、アメリ土人の日本土人妻にはアメリ土人の日本土人妻としての誇りがある。

 

(「土人」て言う言葉わかる?これは後に日本に帰化して日本企業に勤めた主人が、同僚、または上司から、からかい半分に言われた日本語だ。

 

主人はニコニコしながら「僕、土人です」といっていた。卑屈になっていったのでなくて、面白がって遊んでいたのだ。はじめそれを聞いたとき、私は激高したが、本人が楽しんでいるのを見て、以後私は自分を「日本土人」と呼んでいる。だって、「土人」てそこに生まれた人種のことでしょ?)

 

エルサルバドルにきていた日本企業の人々と、補習校を通じてお付き合いをはじめてから、しばしば私はこの低開発国でのみ「誇り高い」同国人から「土人と結婚した二流の日本人」として、たまげた待遇を受けた。そしてその手の意識は、言っている本人が気がつかないという、それほど自然な形で、あらゆる言葉、あらゆる動作の中にあらわれていた。

 

初対面で、何も私の個人的事情を知っていたわけでもないある生徒の母親は、「まあ、先生、もったいない、こんな学歴があるのに、原地人と一緒になるなんて。早く目を覚まして日本に帰りなさいよ!」と親切な忠告をしてくれたりするのだ。なんか初体験なので、私はそういうとき、ただ呆然としてしまったのだけれど。

 

別のやっぱり生徒の母親だけれど、私にハンドバッグをくれた。そのとき言った言葉。「パナマに遊びに行って、皮だとだまされてビニールのハンドバッグつかまされたの。あなたならいいわね、原住民だから。原住民てこんなものでも喜ぶから、あなたに上げる。」「はてさて、私はここの原住民だったっけ。」見ればすぐ材質がわかる「だまされた」ビニールのハンドバッグを見て、当惑した。なんだか、「日本人」て無礼で下品で、教養がないね^^。

 

私はアホだから、何故こんな扱いを「生徒の母親」から受けるのか、まるで見当がつかなかった。

 

私が家庭教師をしていたある女の子の家まで、エノクが車で私を迎えにきたときに、「ねえ、ねえ、先生、黒いのが来たよ。あれ運転手?」といった。「黒いの」ですよ!「黒いの」。母親には私は主人を紹介してあったのだけれど、彼女はそれを聞いて高らかに笑い、まったく子供をたしなめなかった。いくら何でもと思って私が子供に説明をし、たしなめても、母親は笑うばかりだった。

 

ある見知らぬ日本人が別の人物の紹介だと言って、私に自分の電話番号を知らせてきて、「用事があるからここに電話をしてこい」と言う伝言を伝えた。自分の用事でなんだろね、赤の他人に、この態度。ぶぜんとしてとりあえず電話をすると、自分の子の家庭教師をしなさいということだった。「しなさい」ですよ。家庭教師頼むのに、なんだいと、内心思いながら、料金の交渉をしようと思ったら、「アメリカ人は1時間15コロンですが、原住民は10コロンです。だから10コロンでお願いします。」だって。

 

じゃあ、アメリカ人から国語(日本語)を習えよ、と、私はこっそり思った。

 

「あさ黒い原住民の妻」である私が、給料交渉の時「アメリカ人扱い」されなかったのを「屈辱」と感じることにちょっと躊躇し、だからと言って、そういう言い方ってあるのかいと苦笑しながら、日本人会との交流を絶やしたくないと思った私は「原住民値段で」引き受けた。

 

ある海外青年協力隊の一人の男性が、エルサルバドル国立大学で日本語の講師をしていた。その男、別に悪い男だと私は思ったことはない。その彼が雑談の中で、「現地人が日本語はなすとなんだか犬が日本語話したみたいにびっくりするよな」といって笑っていた。そして、書類に目を通しながら、

 

「あ、俺、間違えちゃった。現地人て書いたつもりで、原始人て書いちゃった。うっかり間違えるんだよな!」と、それがいつものことであることを思わせるような発言を繰り返していた。

 

私は洗濯機がほしかった。また帰国する日本人に、古いのでも置いていく人がいないかと思って、日本人会のある奥さんに尋ねたら、こう言った。「あら、洗濯機を買うよりも、女中雇いなさいよ。女中はほんの少しのお金で、家事のすべてをしてくれるのよ。朝6時から夜10時まで働かせて、食べ物は残り物でもやっておけば、洗濯機買うよりずっと安いのよ。洗濯どころか、子守りも食事も掃除も片付けも家事の一切をやらせて、一月20コロンもやっておけば、それですむのよ。洗濯機なんかいいのは1000コロンもするから、もったいないわよ。女中よ、女中!」

 

この話を聞いた私は女中も雇えなくなり、洗濯機も買えなかった。洗濯機より安い女中も、女中より高い洗濯機も、愛してやまない先住民の誇りに生きるエノクに対する侮辱だと私は思ってしまったからである。

 

(コロン:エルサルバドルの通貨。当時1コロン100円。2度の大地震と内戦終結後、アメリカにのっとられたのか、現在通貨はドルになっている。)

 

 

ある奥さんとメルカードにいって一緒に買い物をしたことがある。そのとき肉を買っていた彼女は、別の肉屋にいって、「女中用の肉を買わなきゃ、同じ高いものはもったいない」、とわざわざつぶやいて、「女中用の」肉を買っていた。わざわざ言わなければ、気がつかないものを、彼女はそれを私に親しげに言って、同意をするものと信じていた。

 

ああ!私はかくも差別を受けている悲しい民族の男の妻なのだ。そのことを気遣う人は知り合いの日本人の中にたった一人しかいなかった。

 

これも私が家庭教師をしていたうちのことだけれど、子供が自分のうちに雇っていた女中の腹を蹴っ飛ばして、流産させてしまった。私はそのうちの3人の子を教えていたけれど、3人ともいい子である。さして問題のある子供たちではなかった。しかしそのことは、いくらなんでも日本人社会を緊張させた事件であったが、彼らは問題を明るみに出す前に、お金で解決したらしい。人間の命、お金で解決できるんだ。

 

「日本人補習校の学芸会」

 

補習校の学芸会が迫っていた。小学1、2年生は劇をする。しかもメンバー全員を劇に出して、全員にせりふを語らせるため、一人一人の子供の役割を考えながら、「赤頭巾ちゃん」の脚本を書いた。チューリップにせりふをつけたり、おしゃべり小鳥を登場させたり、その辺は、みんなのせりふの量が同じになるように、自分も楽しんで、かなり興奮状態で、本来の作品とはまるで趣の違う、おかしな脚本を書いた。

 

ところで役割選びが大変だった。赤頭巾ちゃんは主役であることは誰が見ても明らかで、言葉を話すチューリップやおしゃべり小鳥が、子供にとってかなり魅力ある役割でも、親たちの目には、役がないから困った挙句、とりあえず私が作った端役であるという風に見えてしまう。

 

この親たちを納得させなければ、この劇は不成功に終わりそうな雰囲気だった。仕方ない。「民主的」にしよう、と私は思った。小学1年生に「民主的」なのはかえって危険なのだけど、親たちが自分の子はどういう扱いを受けるのか、傍らでじ~っとみているので怖かった。

 

学芸会の劇であろうとなんであろうと、本来の目的は教育にある。元気のない子が元気になり、協力しなかった子が協力し、気の弱い子が自信をつけ、みんながひとつの仕事を完成させることができれば学芸会の目的は達成だ。

 

しかし、私はそのころ、自分の子供というものを持っていなかった所為か、低学年の子を持つ世の母親たちの気持ちがわからなかった。お母さんという種族は、自分の子供しか見えないから、教師の思惑など考えず、自分の子だけはいつも主役に向いているはずだと思っている。自分の子がどのような役割を与えられるかで、教師に対する評価が決まってしまうらしい。

 

脚本を作るとき、私はこの子には赤頭巾ちゃんを、この子には狼を、この子はおばあさん役でもやってくれるだろう、などと思い浮かべながらせりふを書いていた。しかし母親たちの、こわ~い雰囲気を感じた私は、急遽考えを変更して、やりたい役に手を上げさせて決めることにした。自分で決めたことを最後までやるということも必要か!と自分に言い聞かせ、お母さんたちに公開の場で、それをみんなに決めさせたのである。

それも一案、いい結果が出た。いつも一人で孤立して、誰の言うことも聞かなかったあーちゃんが、みなが嫌がるおばあさん役を引き受けた。しかもなんだかすごく意気込んで。ゆう君はこのごろしょんぼりしていたのに、急に元気になって、蛇の役を買って出た。(蛇もいるんです、この芝居には)

 

さて、主役。

 

赤頭巾ちゃんは育ちがいいけど、親があまりに自分の子と一般の子を差別するため嫌われていたれいちゃんにやらせないと、お高い大使館員親のプライドに触れてまずいかなと思っていたら、うれしいことに今までものも言わなかったえみちゃんが、はーいと元気に手を上げて、引き受けた。

 

れいちゃんは小鳥になって、親が思いっきりかわいい衣装を作ってくれた。狼はちびで引っ込み思案のかつ君がいちどひきうけたが、2年生のとも君が、狼役を取られたからもう僕どれもやらないとすねていたとき、狼をとも君に譲って、自分は熊の役をやることにしてくれた。花の役は歌。花のセリフもあって、歌をせりふの中に入れたので、歌が好きな子が、手をつないで合唱することになり、うんざりするほど気を遣いながら役割が決まった。

 

それからみんなを集めて、発声練習をした。一年前まで高校の教師だったときに、演劇部の顧問をおおせつかって、指導の仕方を教えてくれた先輩先生仕込みのやり方で、大げさな身振りの練習をするため、とりわけ大きな家にすんでいる一家の協力を頼んで、かなり大掛かりな練習をした。 

 

子供劇ずれに発声練習から始める先生はじめてみたといって評価してくれる親もいたが、後からうわさを聞いてがっくりした事実もある。ある親たちはあの民主的公開役割分担さえ、私の贔屓目による意図が見えるといって、協力を拒んだのである。すぐに役割を覚えて飲み込みの早い子をさておいて、なかなか思い通りにせりふをこなせない子に一生懸命教えていたら、自分の子はほうっておいてあの子ばかりひいきするということになってしまったらしい。

 

教師だって、人間の感情を持っているから、大方の人に嫌われている子が特別かわいく見えたりしない。嫌われるには嫌われる理由があって嫌われているのだから、人間として、そういうことはわかるのである。いつもみんなに嫌われているけれど、今回積極的におばあさん役を引き受けたあーちゃんを、この際いい機会だからと思って、私は特別指導していたのだ。それを特別その子ばかりかわいがっているという見方をされたのである。

 

冗談じゃない、かわいいもんか、あんなに非協力的で、いつも冷たい表情をして、言うことを聞かない子。かわいくないからといって皆と一緒になって嫌っていたらその子はずっと嫌われて社会に適応できない子に育ってしまう。あの子をそういう状態から引っ張り出して、社会に通用するようにしてあげるのが教育じゃないか。ばかめ。内心カッカと怒っていたが、黙っていた。

 

苦労して劇を作り上げ、学芸会は成功した。しかし、日本人会の間で、人間関係はなんだかどろどろし始めた。私は練習場として場を提供してくれた家族と仲良くなっていったし、一度あの先生は自分の子を愛さなかったと思ってしまった家族は私から離れていった。こういう親の感情は、後に私が自分の子を持って、幼稚園に入れ、小学校に入れ、人間関係を観察しながら悔しがったり、怒ったりしているうちに理解するようになったが、あのころの私には理解できなかったから、うまく対応できなかったのだ。

 

当時のあの国の日本人会は、圧倒的に関西出身が多かった。私の母は東北に根拠地を持つ伊達藩出身だから、遺伝的に無骨な東北武士の気質を持っている。遠まわしにものを言ったり、洗練された言葉で、抜け道を考えながら表面うまくなあなあで人付き合いをしたりしない。私はその影響をもろに受けている。

 

ところで関西の人は、その点巧みである。その巧みな言葉は関東人の私には、よい悪いはともかくとして、言っていることと内心が違うようにきこえる。

 

「いらっしゃい」というから行ってみると誰もいなかったりするような事態はまったく理解できない。「いらっしゃい」の中身は「くるな」という意味だったなどということは私のメンタリテイーでは通用しない。それは「不実」としかみえない。そのことは関西人同士では以心伝心で理解し合える文化圏にいるから、問題ないらしい。

 

ところで、日本人の好きな「以心伝心」という人間関係が成立するのは、同じ文化圏に育ったもの同士に限られている。関東人と関西人が理解しあえないのは、お互いに違う文化圏に育って、以心伝心の手段となる言語習慣が違うからである。

 

子供の作文に私の知らない言葉が入っていて、私は理解できなかったから、母親に意味を尋ねたら、大騒ぎになった。

 

私の質問には何も答えないで、彼女いきなり大勢のお母さんたちにその作文を持っていって、ねえねえ、わかるよねえ。この言葉普通の言葉でしょ。あの先生、へんてこでわからへん言うけど、先生のほうが変と違う?

 

私はこういったのである。「方言は大切にしたいし、子供にとって普通の言葉を私が関東人だからわからないだけで、間違った評価をしたくないから、この言葉の意味を教えてくださいませんか。」

 

私としてはもう完璧に気を遣ったつもりであった。そこにである。大使館員で関東人のれいちゃんの親が加わった。「学校教育は標準語に決まっているでしょう。方言を国語教育で扱うのはおかしいですよ。」

 

ぎょぎょ!出てくるなよ、お偉い人は・・・

 

私は慌てた。「いえ、子供の方言は生活言語だから、これは大切にしようという考えはもう学校教育の中に定着していますよ。」

 

しかしあれよあれよといううちに、私は、子供を贔屓したり差別したりする、官権よりの、自分の知識より上の知識を持った子供を扱えない、とんでもない先生という評価を受けることになったのである。

 

その結果、事実の確認作業に過ぎなかったつもりの親への質問を、子供への非難と受け取った、論理よりも雰囲気を大切にする、なあなあ社会からほとんど総すかんを食ってしまったのだ。

 

日本食のないところの日本食」 

 

日本人は何でも作る。うどんも作るし、豆腐も作るし、こんにゃくも作る。しょうゆも味噌も作っちゃうし、インデイカ米を、ジャポニカ米と変わらぬ柔らかさで炊く方法まで編み出していた。日本人の家庭に行くと日本に帰ったみたいな日本料理がどんどん後から後から出てくる。そうか、と私は感心し、これは取り入れようと考えた。

 

昔、戦後10何年かたってからフィリピンの山奥から、横井庄一さんという元日本兵の生き残りが出てきた。彼は兵隊として召集される前、仕立て屋をやっていたそうだが、その腕は布もなければ針も糸もない山の中で生きていた。

 

草の繊維を使って、ズボンや上着や靴を作っていたのである。写真で見ただけだけれど、その出来は日本中が感嘆するほどの出来栄えであって、フィリピンの山の中で、彼は生活に必要なすべてを作っていたのである。

 

そのことをふと思い出してしまうほど、当時エルサルバドルにいた日本人の腕もすごかった。ない、ということはすごいことなのだ。戦後、私の家族も、「ない状態」から出発した。あの状態の中で、子供だった私はジャガイモの植え方を覚え、とうもろこしの世話を覚え、サツマイモの蔓もかぼちゃの葉っぱも食べ、どれが食べられる草かどれが食べられない草かを学び、卵を産まなくなった鶏をつぶしてさばく方法を覚え、蜂の巣からはちの子を取って食べ、板切れも棒切れも布切れも紙切れも保存しておき、それをつかってあらゆる物を作った。爆撃で井戸も水道もつかえなくなったあのころ、うまい具合によく雨が降り、雨のたびにすべての入れ物に水をため、庭に出て体を洗った。それが私の子供時代である。

 

(それだけ「できた」私もネット関連の用語に関しては、意味不明で、いわれる作業が何もできない。サルでもできると言われていることさえできない。)

 

学校で習う、生活に必要なことを全部忘れるな、学校以外で習わせてあげられないからと、母は口癖のようにいって、小学校のとき、私が家庭科で作った基礎縫いの見本を20数年も取っておいた。私はその20数年前の基礎縫いと、まだ尺貫法で記した料理のレシピのかかれた家庭科のノートを、エルサルバドルに持ってきていた。私は母の気持ちと過去に対するノスタルジアから、その黄ばんだノートを持ってきていたに過ぎなかったのだけど、日本人が何でも造るのを見ていて、あれが役に立つぞと思った。

 

町に出ると私は必ずフェレテリア(金物や)に入って、使えそうな道具を買い込んだ。面白そうで、使い道のわからないものは、店の人に、これは何に使うのかと聞いて、使い方を理解してから買い込む。釘や鋸やペンチや金槌、そういう基本的な大工道具に台所で使えそうな珍しい道具。それらを買い込むと、なんだか落ち着くのである。これで何が起きてもやっていける。

 

後で日本人が引き上げるとき、いろいろ便利な道具を残して行ってくれたので、内戦の全期間、私は道具を使うサルとなって、生き延びることができた。

 

グアテマラにはもう3回行っている。私はそのたびに、グアテマラの原住民たちが織った手織りの布地を買い込んできた。

 

特に何を作ろうという気持ちがあったわけではないが、あまりにきれいだったし、中米はまだ穴居生活をしているに違いないと思っている母、洋裁が好きで、町で生地を見かけては買い集めて、自分のものを縫って暮らしていた母へのプレゼントにもいいと思っていた。

 

いつか主人の学会にアンテイグアまでついていって、一日ホテルにいるのもつまらないから町で布を見ていたら、それは100ケッツアルだといわれた。(当時1ケッツアル1ドルの時代である。)高いよ、あそこでは25で売っていたよ、とはったりをかけたら、いきなり18ケッツアルにまけちゃって、素敵な布地を手に入れた。

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そのころ私はそんな深刻な思いで内戦を生き抜こうと用意していたわけではないのだが、なんだかだといろいろ買い物をしたので自活ができそうなものがたまっていった。

エルサルバドルは食器類が貧弱である。不ぞろいなプラスチック容器で、何でもかでもごっちゃにして食べている。日本の陶器文化で育ったものにとって、それはいかにも悲しかった。まともな店には、陶器でできているものは、あることはあるが、すごく高価な品しかなくて、庶民は、うんざりするほど貧しい食器を使っている。私だって使ったことのない王侯貴族が持つような贅沢品に手をつける気はないし、だからといって、模様も飾りもないまるで実用本位のプラスチックの食器は味気ない。

 

この国本来の食器は土器である。それもすごくいいものがあるにはあるのだが、焼く温度が弱いのか、すぐ壊れる。

 

特に素焼きの水差しはまだかなり一般的に使われていてとても形が面白い。何個か買ってきて水を入れておいたが、素焼きが弱いせいか水がじわじわと漏るのである。

 

そのことをいつか主人の友人が集まったとき話題にしていたら、彼らはこういうのだ。「この素焼きのつぼの中に入れておいた水は、うまいんだ。つぼがフィルターの役割をして、中にたまった水はきれいになる、だからしばらくこの中に入れておいた水はすごくおいしくなるんだよ。」

 

変だなあと私は思った。常識に横槍を入れる私の癖が始まった。「つぼがフィルターの役割をしているというのなら、フィルターを通して出るほうの水がきれいで残る水は汚れているんじゃないの?だとしたら、外にじわじわ染み出している水を飲むほうが正しいと思うけど。」

 

彼らは先祖伝来のフィルター説を信じ込んでいるから、私の論理がなかなかわからなかった。それで私はコーヒーのフィルターをだしてきて彼らの前で実験して見せ、「ほら、つぼがこのフィルターの役割なら、つぼを通して下に落ちたコーヒーを飲むのが普通で、紙の中に残ったコーヒーのくずを普通は飲まないでしょ。」

 

彼らはみんな大学の工学部の先生たちだった。フィルターの原理がわからないはずがない。コーヒーのフィルターを見て、みんな暫く顔を見合わせて、それから突然笑い出し、俺たち何を信じていたんだと、いいあった。かわいそうだったので、また私が助け舟を出した。「これでもなお中の水がうまいというのが本当なら、それはこの素焼きが持っているミネラルのせいかもしれないですよ。ほら、見えるでしょう、素焼きのつぼの表面にきらきらしている異物が。」

 

「ほ~~」

 

これ以来主人の友達の間で、彼は日本からすごい学者の嫁さんを連れてきたという評判になった。本当はミネラルなんて見えやしない。

 

それはともかく、私はまともな食器がほしかった。中間がないかと町中を探し回り、とうとう見つけたのが中華食器だった。がらが中華だけど、食器は西洋料理を意識しているようなものだったので、好都合だ。全部バラで売っているから買いやすい。マリポッサ(蝶々の意味)という名の店である。そこには食器ばかりでなく、東洋文化がかなりそろっていた。

 

花火、扇子、手芸に使えそうなもの、糸も布地も、かなりいいのがある。その店を偶然見つけてから、私はその店の常連になった。お金がなくて買えないときでも目を楽しませるためにそこの店を覗いていれば心が落ち着いた。

 

私は東洋文化エルサルバドルの土着の文化の間をいつもさまよっていた。

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