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エルサルバドル内戦体験記

また、訳語の話

また、訳語の話

今朝、「今日のみことば」の解説を読んでいて、「そうか…」と思ったことがある。それは、ルカ13章10~17節に書かれてある言葉だ。

安息日にイエスが「18年間病の霊にとりつかれている」女性をいやし、「婦人よ、病気は治った」と言ったという箇所の訳語。「病気は治った」と訳された動詞の「治る」の原語は「アポリューオー」(本来の意味が、「囚人を解放する」「在る場所から去らせる」「妻を離縁する」と言う時に使われる動詞で、「病気から解く=治す」と言う意味に用いられるのは、この一か所のみだそうだ。

つまり直訳すれば、「婦人は病の束縛から解かれた」となる。

その事実は、あくまでファリサイ人の客観的な目からすると、安息日に赦されていない医療行為、「仕事」であり、イエスの行為は律法違反となる。

ところで、安息日の由来だけど、私は子供の時から、日曜は「神が創造の業を休憩した日」と言う故事にちなんで「休み」とされた日と教えられてきたから、そんなおとぎ話みたいな由来に、あまり大した関心もなかった。しかし、解説には、安息日の本来の由来は、エジプトの奴隷であったイスラエルの人々が、神の助けによって「解放された」ことを感謝し、祈念する日なのだそうだ。

だから、イエスの考えでは、その「解放に感謝し記念する」日に、婦人を「病から解放する」ことは、決められた規定に対して無思慮に盲従することよりも、よほど意味あることである。だから「安息日とはいえ、牛や馬だって水を飲むためには小屋から解放することが赦されているのに、‘アブラハムの娘’を病から解放する」行為に、なんの不都合があろうというイエスの回答が生きてくる。

これは、新発見。

今までの説明だと、とりあえず、「旧習だから日曜に仕事に行かずにミサに行く」程度の意味しかなく、イスラエルの歴史において、さまざまの艱難辛苦の末、神の助けによって「奴隷のくびきから解放されたこと」を忘れないように、自分の都合による日常の仕事を一旦休んで、神の恵みを思い起こし祈念するために設けられた日としての「安息日」なら、かなり納得がいく。そしてその日を「選んで」イエスが婦人を病から「解放した」のなら、それはただの奇跡話ではないではないか。そこに本当の「救い」の意味が隠されている、かなり重要な個所ではないか。

なんで、こういう説明を生まれて70年後に知るようなことになるんだろう、と私は思った。さっさと初めから言ってくれれば、もう少しまともに、聖書と向き合っていたのになあ、なんていういの、自分勝手だろうかネ。