Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

信じることって^^

いそいそ。久しぶりに例の聖書講座に行く。期待しているけれど、会場は、遠く信濃町。余震が続いているので、地下鉄に乗りたくないけれど、一番早く行くには、千代田線で新御茶ノ水に出る経路が最短距離。時間はヤフーの路線検索で見ておいたから、後は天気の問題だけ。雨が降れば、駅まででも自転車は無理。片腕が痛いから、リュックがだめ。仕方がないから、聖書は持って行かない。あれ、重いからなあ。
 
実は、キリスト教とは無関係な宗教の信者で、チャットの部屋などを持っていろいろの宗教に対して発言している人が友人にいる。その人に、ちょっと声をかけて、仏教に関する知識を聞いてみたのだけど、話が変な方向に発展して、「信仰と学問」の話になった。
 
私がこのところ、聖書講座に出席して、得た知識をちょっと披露したのが原因なのだけど、彼はいきなり、「信仰は学問ではない、とにかく人間の話より神様を信じるべきだ」と言い始めた。
 
「神様の話」とやらを伝えているのも「人間」だし、私は神様とやらから直接みことばをたまわったことなどない。伝えた「人の言葉」が年月を経て誤解されているなら、それを解明するには「学問」が必要だと言ったら、とにかく伝えられたことをそのまま信じるのが信仰だと、信仰のない宗教は成立しない、などと、なにか、ひどく攻めてくる。
おまけに、「彼のキリスト教感」は「彼の宗教団体の教祖のキリスト教感」なので、その教祖様が、「キリスト教に関してもいろいろ霊感をうけていて」、「虎さんが知らないことがどんどんわかってきているんだ」とか言う。ちと、もてあました。
 
こりゃ、相手にできないと思って話を切り上げたのだけど、信仰が学問でないことは当然だが、白と伝えられたものは、実は誤解で赤だった、サルと伝えられたものが、実は誤解で豚だった、なんていうことを、「白のまま、サルのまま、伝えられた通り信仰する」のが宗教なら、私はそんな宗教は放棄するね。
 
まあ、この人は別に神様を信じているのでなくて、教祖様を信じているのを、気が付いていないらしい。実は、その教祖様、自分こそ、真理の源の人格化した存在だと、言っているらしいけれどね^^。
 
信じるって、すごいことだ。もう、教えられたこと以外のものは考慮の外なんだから。