「上じゃなくて、前を向いて歩こう(^^♪」
「前後左右上下があって、完全です」
私はどうも後ろ向きに歩いているらしくて「前向き」で歩けってよく言われる。自転車で走っているときに、よく朝の散歩で後ろ向きに歩いている老人がいたのを覚えているけれど、なるほどあれ迷惑だね。遠くからだと前向きか後ろ向きかわからないのに、自転車が近づくと、相手は気付かずに、背中を向けてこっちに迫ってくる。あれでも、顔は「前向き」だし、本人が後ろに自転車が来るのに気が付かないだけ。
それでも、前向きがいいかね。あほらしいんだけど。。。
人間は頭も胸も腹も尻も足もあって完全という。頭だけで歩いている人も、胸だけ腹だけ尻だけ足だけで生きている人もいない。後ろのことを無視して前だけ見て歩いていたら、だいたい事故につながる。
プラス思考プラス思考と叫んでいる人がいるけどね、80年生きてきてマイナス体験が何もないなんて、そんなことを平気で言う人がいたら、そりゃただの嘘つき。いろんな体験を乗り越えて今がある。マイナス体験がなかったら「乗り越えた」と言えない。そんな平和は、疑似平和。
「平和」ってねえ、苦悩も戦いも何もないのっぺらぼうの境地じゃないよ。平和の意味をなんか勘違いして「自分に都合悪いことが起きない状態」と考える平和主義者がいるけど、ちょっとそういう平和主義者とは付き合えません。自分に都合悪いことは、あっても見ないようにするのが「前向き」?ばあか
それから「運」の話。まあ、「運」というものには人の人生を司る「神」の存在がない。ぼやや~~んと自分が置かれている状況を「運」という。「運」なんて人格がないから、心して付き合える相手じゃない。
一方「神の加護」「神の配剤」を信じる考え方では主語のない「運」と言う表現がない。それがあるかないかで平和の意味が全く変わる。運、強運、悪運、運気、運がいい、運が悪い、ついてる、ついてないと言う言葉に「神の存在」と言う考え方は全くない。その「運」には人格がない。しかもその「運」というものは人間の意識でどうにでもなるらしいし、だから強運を引き寄せるにはマイナスになる言葉を発するなとか言う。つまり悪運強運を支配するのは人間の意思である。「前向きなことしか考えるな、そうすれば強運が付いてくる」という考えね。
日本文化に表現される「神々」と欧米文化輸入の「『
神』と和訳された存在」と全く違う。
中世日本に漂着したポルトガル人宣教師が訳語に困って「神」を避け、そのまま「デウス」と言う言葉を使ったのは、彼らが日本文化を理解するにつけ正確な訳語が見つからなかったからだ。
日本のカトリックは20世紀末のヴァチカン公会議まで第一原因としてのDeus(ラテン語)God(英語)の訳語として「天主」と言う言葉を使っていたのは、本来の日本文化の神と欧米文化を支える第一原因としての存在が根本的に違っていたからだ。
いつか読んだ本に日本中に祀ってある「神」なるものは「雰囲気」みたいなもので、日本人は雰囲気を神と称すると書いてあった。ありうるが、完全ではないけれど、日本文化における神々が人格化できないことは確かだ。何しろ「ついてる」か「ついてない」かが問われる宗教観に天地を司る神なんてありえないから。GodにはGodの側に意思も、計画もあると信仰されるのだから、人間の側には多分、「信仰」しか求められていない。
新年は、日本では宮参りの季節で、どこでも神社は参拝客で満員らしい。おまけに、あらゆる神社という神社を参拝するらしいしその神社によって、御利益が違うらしい。ご利益は「ごりやく」と発音するが、漢字を見れば「利益(りえき)」である。だから神社によって、その与えられる利益は違うらしい。縁結びもあれば、金銭的な富をもたらす神もある。心配したり疑ったり、「マイナス表現」をすると、その利益は得られないらしい。
眠いのに眠いと言ったり、お腹すいてるから腹減ったと言ったり、金がないから金が欲しいと言ったり、病気がつらいと言ったり、そういうのはみなマイナス表現で、マイナス表現をする奴は危険だから近寄らないほうがいいらしい。つまり、事実であっても口に出しちゃいけないのだから、そういうことを口に出す私みたいな人間は毛嫌いされる。私に近づいたら、邪気が映ると運気信仰者は考えている。
眠いから睡眠時間を求め、空腹だから食料を求め、貧乏だから豊かさを求め、病気だから医療機関を求め、マイナスを脱却しようとしているとき、自分が求める強運が逃げるから近寄るなと言われれば、そういう運気信仰者と付き合っちゃいけないと考えざるを得ない。
前を向け前を向けと彼らは言う。でもね、前だけ向いて歩いて80年の人生乗り切れたと思うのかね。戦いながら祈る、私はそういう人生を歩んできた。