「自伝及び中米内戦体験記」10月6日
実生活からちょっと逃れて
「グアテマラ漫遊記」(1)
「つめきりテロ」
2002年10月27日、私は成田に向かった。見送り人はおろか、知り合いがこの旅行をまったく知りもしない海外旅行というのははじめてである。娘が最初の地点であるヒューストン空港で待っているが、エノクはこれも海外出張中で、自分の旅行を見送ってくれたのはどうも、会ったことのないネットの向こうの存在不明の人物たちだけのようだった。旅行上の注意などを教えてくれたのも、やはりネットの知り合いで、自分はいつのまにか、ネットお宅になってしまったらしいのを、ほんの少しシニカルは思いで心に刻んでいる。
アメリカにすむネットの知り合いが、アメリカは飛行機に乗るときのチェックが厳しいから、ヒューストンで一時降りて娘に会うのは危ないぞといってきた。雲の向こうでも、夫がメールで知らせてきたのは、アメリカは彼のパスポートを見ていつも怪しいと思うらしく、彼のためにのみ、いつもチェックを丁寧にして、飛行機を遅らせるということだった。
彼はもともとエルサルバドル人で、民族の顔を持っているが、日本国籍を取得したから、パスポートは日本の政府から出ている。それでどこの国に行っても怪しまれて、彼のためのチェックで飛行機が遅れるのだそうだ。おまけに彼の顔は白人と黒人を除いた中間色のすべての人種から、自分の同国人と間違えられていろいろな言葉で話し掛けられるらしい。交渉用には便利な顔なのだけれど、入国審査だけは不便な顔だ。
私は覚悟を決めていた。アメリカについたら、疑われる前にどんどん服を脱いじまえ。ほらほら、どお?これはシャツ、これはズボン、これは下着、パンツにブラジャー。全部見ていいよ。
でも、ネットの友人がそういうことをしたら、かえって疑われてレントゲンまでかけられると言っていた。体の9個の穴という穴を調べられたりするぞ。9個ねえ。数えてみた。体に9個の穴があるというのは、昔「奥の細道」の授業に出ていて、芭蕉の言葉として知ったのだけど、芭蕉も暇人だったんだね。変なものをよく数えたもんだよ。
それから、これは旅行者から受けた注意だけど、針とか、爪切りなども、危険物だから機内に持ち込んではいけないそうだ。畳針ならテロもできるかもしれない。でも、つめきりでテロができるのかしらん。つめきりテロでも起こして飛行機が落ちたら、テロリストも満足だろうし、落とされたほうはずいぶん不名誉だね。でも、ちょっと考えた。爪切りでも、1万個を機内に持ち込んで、どんどんどんどん投げつけたら、かなり混乱させることができるかもしれない。なんか、やってみたくなった。
とかなんとか、つまらないことだけ考えながら、私は去年から計画をしていたグアテマラへの旅に出た。
久方ぶりの飛行機搭乗。隣は両脇とも日本人。しかし、この旅は20年前の旅とは趣が違っていた。座席ごとに小さなモニター画面がついて、大きな画面を首を伸ばしてみる必要がない。そんなことを知らなかったから、老眼鏡は荷物の中に入れてしまって取り出せない。画面は近すぎて、日ごろつけているめがねでは見えない。隣の人と話でもしようと思ったら、みなそれぞれの画面を見て、ゲームなどをしている。ぎっしり詰め込まれた飛行機の旅がこんなに孤独なものとは思いもよらなかった。
昔の旅は、14時間もいっしょにいたら、隣同士すっかり友達になったものだ。今の旅。右はテレビゲーム、左はビデオで映画を見ている。私は画面を見られない遠視鏡のため、眠り込むより仕様がない。旅のはじめから、悲しかった。これが現代人の旅なのか。私はかつて子供のころ経験したことのある東海道線の夜行列車の旅を思い出し、旅の変遷を思って、やっぱり新しい哲学を考えていた。
乗員が飲み物はいかがといいに回ってくる。それに対して、声を出して答える人がほとんどいない。指を指したり、乗員に促されて、首を立て横に振ったり、ジュースをもらっても、ありがとうのひとつもいわない。何だ、これはと私は首をひねった。テレビ画面がまえにあるだけで、人はこんなに無口になるのか。無礼なのか、傲慢なのか、無知なのか、沈黙の世界だ。
ゲームに熱中している隣の夫人は、時々、通路を隔てて座っている小学生ぐらいの子供に呼びかけられている。家族で旅行かなと思って、ゲームから目を話した隙に聞いてみた。ところで、期待していなかったのに、彼女、私の言葉にすがり付いてきた。「主人の転勤で、家族みんな引越しなんです。もう、お先真っ暗なんです。」え?単身赴任が普通の日本の習慣なのに、家族でいけるなんて、幸運じゃないのかなあと思った私は、すかさず聞いてみる。
子供が小学校6年と中学校3年で、二人とも卒業を待たず、未知の世界にいかなければならないのが不安だという。そうか。学校が問題なのか。でも、と私は言った。いけば必ずいい経験をするし、どんな経験でも自分のために生かさないとうそですよ。お先真っ暗という考えでいくと、道を逃してしまいますよ。少し自分の履歴を明らかにした。望んでこういう道を選んだのでもないのだけれど、道のほうが私を選んでいるらしくて、波乱万丈を生きてきましたよ。でも今思えばみないい経験でした。
彼女はすがりつくような目で私の話を聞き、それから目の前の画面にとまどっている私に操作の仕方を教えてくれた。
乗務員が食事の注文を聞きにくる。肉にするか魚にするか。相変わらずみんな無言で、指を指す。fish pleaseという私の言葉に乗員は、なんだかすごく感激している。Thank you so much.といったのも私だけである。乗員は私にだけものすごく親切にしてくれる。あきれたことに、反対の隣の男は水を要求するのに、コップを持つような手つきをして、ううううううとかいっている。こういうのをshyというのかな。むしろ成長ホルモンが足りないんじゃないかなどと思う。しかし、機内食はまずかった。
夜になった。男がトイレに立つらしい。無言で私のひざをまたごうとした。たまりかねて、私は言った。一言いってください、立ちますから。やっと男は、あ、すいませんと言った。足が短い男だ。私のひざに股を触れられて、げげと感じたので、あわてて、とびあがった。日本人は昔、礼儀正しいことで国際的な評価を受けていた民族なのに、いったいこれはどうなっているんだ。
「グアテマラ漫遊記」(3)
飛行機が降下をはじめるらしいのに気がついて、あらかじめ用意しておいた詰め物を耳に詰め込む。それから思い切り強く指で耳を押さえる。そうでもしないと私は気圧の変化を敏感に感じて、3日くらい耳が聞こえなくなるのだ。あたりの人はみんな平気らしい。昔ロスアンジェルスの空港で耳が聞こえなくなって、入国管理でひどい目に会った。何を言われてもわからなかったため、無学文盲だと思われて変な部屋に連れて行かれて取調べを受けた。それに懲りて、飛行機に乗るとき、いつも耳に詰め物を用意する。
ヒューストンの入国管理で、黒人の女性の役人が、わけのわからない発音で、話し掛けたが、無事通過して娘が待っているはずの出口に行ったが、娘は来ていない。呼び出しを頼もうとしたが、ここは日本のような呼び出しのサービスはしてくれなかった。仕方なくて、携帯に電話をしようとしたが、コインがない。コインを替えてくれないかと頼んだが、これも替えてくれない。どこかに両替機があるというから探し回ったが、見つからない。しかたないからぼーっとしていたら、機内でであった「お先真っ暗の家族」が通りかかった。
彼らの助けで、携帯に電話したが出てこない。娘に渡すはずの荷を渡さなかったらこのままグアテマラまで、必要のない荷を持っていかなければならない。「お先真っ暗の家族」がいい提案をしてくれた。別の出口に行って、大きな看板に娘の名前を書いて、探しましょうよ。
向こうから一人、娘によく感じの似た女性が歩いていた。「あの女性に似ているんです、うちの子」と、私はお先真っ暗の家族に言った。みんなでその女性に注目した。その女性が近づいてきて私に、「わあ、もう来たのお!」といった。なんと、娘だった。数ヶ月前に別れたばかりなのに、娘はアメリカ人のように見えて、自分の娘とは思えなかった。
早速重い荷を渡し、乗り換えの便を待つ3時間ぐらいの間、彼女のホームステイ先の主である、エノクの友人に連れられて、レストランに行く。
ヒューストンの町はひどく平たい町だった。日本みたいに渋滞ではないから、車はスイスイと流れる。しかし平坦で変化のない、そして空ばかりやたら広い世界だ。やっぱりこの国は広いなと、感じた。ビルの林立がない。だから広い。空が高い。でも、どこにも自然の息吹は見えなかった。ここがブッシュを生んだ州か。そういえば、空港の名前もジョージブッシュ空港だった。
レストランは誰かの誕生パーテイーでもやっているのか、にぎやかだった。マルガリータを注文して、ほんのわずかな時間を娘とともに過ごした。それからいよいよ空港に向かう。なんだかエノクやネットの友人に注意されたことがこれから起きるのかなと思うと緊張もするが、期待もしている自分を感じる。
しかし空港に行っても特別何もおきなかった。ボデイーチェックも荷物調べもない。さっさと脱ごうと思っていたのに、まったく取調べを受けず通過。しかし、いつまでたっても、待ち合わせをしている今回の旅の企画者がこない。彼女はサンフランシスコからくるはずだが、時間が過ぎているのにこない。一人でグアテマラに行ってどこの旅館に今晩泊まるのだかわからずどうするんだ、なんて、悪い方向に考える。
彼女とは、娘に会うために、日本人のほかの一行と別行動をとった私と一日前に会うことになっていたから、その日の計画が計画書に載っていないのを、どうせ会えると思って、確認もしなかった。
アメリカから中米に行く飛行機は、どうせおんぼろだ。昔からそうだから、今回もジェットコースターみたいな目に会うんだろう。そう覚悟して、一人で飛行機に乗った。座席に座ると、隣がデブだった。ジェットコースターで隣がデブだと私は生きた心地がない。そのデブは家族と乗ったのだが、家族の席が離れているらしいのを見て、席を替わってあげましょうといって、うまくその席を離れた。私は閉所恐怖症である。狭い機内の座席の両側にデブが詰め込まれると、私はものすごくパニックを起こすのだ。
座席を替わって一人で座っていたら、例の企画者が乗ってきた。飛行機が遅れたので、もう間に合わないと思ったといって、ぜいぜいしている。しかし、その飛行機もずっと遅れていて、なんだかまだついていない一行を待っているらしい。やっぱり中米行きだけあるなと思った。そこにどやどやと乗ってきたのはどこの言葉かわからない言葉を話している一行である。私の隣に座った。中米行きはもちろん、日米の国際便と違って、モニター画面なんてない。隣に座ったのはノルウエー人でいやというほど話し掛けてきた。
ノルウェー語、英語、スペイン語を話す。若いが案外知識が豊富らしい。旅はこうでなきゃ。飛行機がへなへなで、ハイテクではないのを、私は内心喜んだ。飛行機はがたがたとゆれる。田舎のバスのように、座席の肘掛にしがみついていないと、シートベルトで腸が切れそう。これだこれだ、これがグアテマラだ。吐きそうになりながら、私は久方ぶりの田舎の飛行機の旅を味わって、バウンドしながら着地する飛行機を懐かしんだ。グアテマラについたのである。
「グアテマラ漫遊記」(4)
「アンテイグア」
初日
おんぼろ飛行機が乗客を吐き出した。企画者のAさんが先に出て、待っている。ここでも無事イミグレを通過して荷物を引き取り、懐かしいグアテマラの町に出る。愛子さんが忠犬ハチ公と呼んでいる、これからグアテマラ中を同行する運転手のロランドが手を広げて待っていた。私の姓が中米の一般的な姓だったから、すぐ親しそうに、スペイン語ができるかなんて聞かないで話し掛けてくる。
道路は舗装されている部分と、でこぼこの部分と泥だらけの部分があって、決して快適とはいえないが、何でもかでも懐かしく、ああ、グアテマラだグアテマラだと二人で立て続けに歓声を上げながら、アンテイグア市の最初のホテルに到着する。この町はグアテマラシテイーが首都になる前の植民地時代の首都で、地震で崩壊して遷都して以来、第2の都市として、アンテイグア、つまり、旧都の名で親しまれている。グアテマラシテイーが白昼強盗の危険のある町なのに比べて、平和な落ち着いた町である。
所々へこんでぬかるんでいる石畳の通りを、思いっきりがたがたしながら、車が止まった。ホテルに到着である。石造りの中庭、パテオがある、スペイン風の古風な建物を見て、ああ、グアテマラのホテルだあと喜んだ。入り口に石の像が二つ立っている。アントニオかフランシスコかその辺の聖人の像だろう。Aさんが取った部屋は2階にあって半分螺旋階段になった細い階段を上ると下に中庭が見えて、なかなか素敵だった。部屋は天井の梁まで彫刻がしてある。壁の飾りも趣味がいい。
グアテマラの宿↑
ただしその建物のたたずまいとは裏腹に、ホテルは食事も出なければ、水も飲めない、サービスのないところである。サービスが悪いのでなくて、はじめからサービスがないのだ。時差でくたびれているから、何でもいい。ベッドに転げ込んだ。眠り込む前に天井を見上げる。木目が出た天井はオレンジ色で梁が黒い。其の梁に彫刻が施してある。植民地時代の豊かなスペイン人が作ったのだろう。壁にはこの国の原住民が作った組みひもが飾られている。華やかで趣味のいい紐。
旅行前の注意書きに、Aさんは水を飲むな、うがいもするな、シャワーの水を口に入れるな、と書き送ってきた。私はかつて、中米で暮らしてチフスもアメーバー赤痢もデング熱もやったことのある経験者だけど、もうあの免疫は消えているかもしれないので、いちいち買ったビン入りの水を使って、洗面、歯磨き、うがい、すべてをこなす。幸いシャワーの水は温かかった。
8年間エルサルバドルにいたときはシャワーの水は冷たかった。Aさんがグアテマラで子育てをしたときは、水道から糸ミミズが出てきたそうだ。エルサルバドルは糸ミミズ入りの水さえも出なかったぞ。昔のそういった体験をお互いに話して、ツアーの一行より一晩早くきたその夜を二人で過ごした。
「グアテマラ漫遊記」(5)
「エスペランサ」
次の朝、Aさんと二人で町に出た。彼女は昔ここに住んで、結婚し、子供を育てた。だから彼女にとって、この町はホームタウンなのだ。懐かしい懐かしいといいながら彼女は飛び跳ねながら町を歩いている。石畳のへこんだとおりである。でも私がこの町に来たのはもう20年以上前である。だから彼女より記憶が遠い。町の様子がどこか違うなと感じた。
まず朝の食事をするため、レストランを探す。ホテルに近いところがあいていた。自分のうちみたいな気楽さで、Aさんは入る。おはよう。朝食の用意できている?椅子がまだテーブルの上に乗っているところもあって、大丈夫かなと思ったら、別の一角に案内してくれて、首尾よく朝食にありつけるらしい。
中米の朝食を頼もう。懐かしい豆の料理と卵。トルテイージャ。プラタノという大きなバナナの揚げたの。サルサはチルモルと呼ばれるトマトや玉ねぎやクラントウロ(香草、コリアンダー)のみじん切りにしたものに、いろいろの香辛料を加えたもの。コーヒー。お決まりの中米の朝げの匂い。それがテーブルに並んだときうれしかった。グアテマラだ、グアテマラだ、グアテマラを食べるぞ。
町に出た。トラベラーズチェックを現地通貨に替えなければならない。ここでは一般の店がトラベラースチェックにそのまま応じたりしないから、銀行で替えてもらう。しかも銀行によって同じ日なのに、レートが違う。トラベラーズチェックを出した銀行によって受け取らないところもある。私のは三菱だから受け取るかと思ったら、2,3件断られた。
やっと見つけたところでも、200ドルまでという制限がある。おまけに、行員の見ているところでサインしないといけないので、行員がちょっと後ろを向いたときサインしても無効になるというものすごい話。ドルの現金についてはこれもちょっと知っておかなければ大変である。しみがついていたり、しわがついていても替えてくれないから、はじめから持っていくときに新品なドルを持っていかなければならない。アメリカによって、うっかりおつりにもらったしわだらけの使い古したドルをつかまされたら、グアテマラでは使えない。
これもやっぱりグアテマラだ。そういう出来事を、私は中米にいたおかげで頭にこないで受け入れられる。かえって懐かしい。こういう感情が愛するということかもしれない。後で合流した日本人の観光客がいちいち頭にきていたから、私はやっぱり、グアテマラを愛しているのだろうと、つくづく感じたのである。
これで歩く用意ができた。ふところにおかねをいれてDカップになった。がさがさとしたDカップである。とおりを歩く。向こうから頭に籠を載せ、背中に斜めに赤ん坊を背負った女性が近づいてきた。見慣れたグアテマラの原住民の姿である。その女性を見てAさんは歓声を上げた。両腕を広げ、二人は抱擁を交わした。赤ん坊を抱いているがなんだか12,3歳に見えるかわいい顔をした女の子である。
後で聞いたけれど、この女性はAさんのご主人が名付け親になった人だそうだ。小学校4年ぐらいまで、Aさんのご主人が面倒見たそうだ。町で物売りをしている原住民で小学校を4年まで出ていれば、もうインテリに近い。名をエスペランサという。悲しい過去を持っているらしい。ただ原住民はすべて悲しい過去を持っている。18だといっているがそうは見えない。子供はもう一人いて、背中の赤ん坊は生まれて2ヶ月だそうだ。
これは実写ではないけれど、モデルは出会った女性「エスペランサ」
赤ん坊の名前を聞いた。ブライアンと答えた。もう一人の子はアンダーソンとなずけたという。なんだか奇異な気がした。その名は原住民の伝統でもないし、父親の名前でもない。父親も原住民の少年で、17歳だ。その子の名前がブライアン。明らかに今の征服者、アメリカの名前である。彼女の名前もエスペランサだから、原住民の名前ではない。これもひと世代前の征服者、スペイン系の名前である。
深い事情を察して悲しいなと思った。案内人Aさんが後で説明した。自分の子はもう原住民として抑圧の対象にされたくないという思いで、あの名をつけたらしいよ。原住民であることを忘れたいという、もうこの生活から逃れたいという思いがあの名前になったらしい。そうか。原住民は原住民であることを恥じているのか。この国の人口の60%を占めるこの国の主人公であるはずの原住民が、原住民であることを逃れようとしているほど、彼らは苦しんだのだ。
子供がブライアンと名乗ったところで、彼女がエスペランサと名乗ってさえ得られなかった人間としての尊厳を得られるわけがないのに、親は子供の幸福をこの名に託したのだ。そのことは私の心を深くとらえ、そして私は彼らのために傷ついた。
「グアテマラ漫遊記」(6)
「メルカード」1
方向音痴の私にはどこをどう歩いたのかわからない。でも町は何かが期待通りでないのをさっきから感じていた。
1976年に私はこの町を歩いた。そのときの印象は、グアテマラは赤い色に満ちた国だというかなりの衝撃に似た印象だった。町をひしめく原住民は、赤を基調にした色とりどり縞模様の民族衣装を身にまとっていた。町にうずくまる乞食さえ、鮮やかな手織りの衣装を着ていた。Tシャツにジーンズ等といういでたちは旅行者だけだった。そのことを私はどんなに感嘆しただろう。彼らが自分の文化に誇りを持って、決して現代の西欧の文化を受け入れない姿を見て、どんなに敬意を払っただろう。
あれから26年の年月がたった。原住民は激しい弾圧に耐えて、内戦の中を逃げ惑い、一応の停戦を迎えたのは確か10年位前かなあ。今、首都のグアテマラシテイーは、白昼強盗が横行する危険地域になっていて、決して平和が来たとはいえないが、政府軍の執拗な原住民掃討作戦は表向きなくなっている。内戦時代の政府軍の所業を追及する組織が現住民の尊厳を守るため活躍しているが、その組織をつぶすための暗殺団がまだ暗躍していて、拷問や虐殺は日常茶飯事だということは変わらないらしい。
変わったのは、グアテマラはもう赤を基調とした民族衣装の国ではなくなったことらしい。町を歩いているのは美しくも何ともない、われわれがどこの国でも見ているシャツとズボンの個性のない人々である。激しい原住民掃討作戦の犠牲者となった人々は、民族衣装を着て死んでいった。
ある日突然引っ張られ、拷問を受け、殺されて大きな穴に放り込まれ、そのまま家族に知らされることなく、秘密墓地と呼ばれる地中で眠っている。その数は、9・11のあの崩壊したビルの死者の数を大きく上回る。行方不明者5万人以上、死者15万人以上。壊滅した村400ヶ村。撲殺された死者の正確な数字はわからない。この国の政府軍に武器援助し、特殊部隊を送り込んで、殺しの仕方を訓練したのはアメリカである。
あの衣装を着ることは、原住民であることの表現であり、合法的な殺戮の標的である。だから彼らは衣装を脱いだ。グアテマラはほかのどの国の人々ともかわらない衣装を身に着けることによって、生き残る道を選んだ。エスペランサが子供にブライアンとなずけて、原住民であることをカモフラージュしたのと同じ理屈である。
「誰も民族衣装を着ていないね。」
ぽつんと私はAさんに言った。
「そう。毎年毎年民族衣装が減っていく。手織りの技術もなくなっていく。昔誇りであったものが、今は恥と思うようになったから。戦乱が民族の誇りを根こそぎにしてしまった。」
メルカードに行こうよ。とAさんが気を取り直すように誘ってくれた。市場のことである。市場の賑わいが、私はとりわけ好きなのだ。ごちゃごちゃと、籠に入れた野菜や鶏が生きたまま売られているメルカード。値段の交渉をしながら、おばさんたちと仲良くなれるあの空間。Aさんの後をついていった。彼女はまるで、自分の故郷のように感じているらしいのがわかる。目を輝かしている。
そのメルカードは日常品のメルカードではなくて、観光客相手の土産物屋が多かった。彼女は例のごとくどこかを目指して歩いていく。そこに目を輝かせた女性が飛んできた。A子おおおおお。二人はまた抱擁をして挨拶する。やっぱり現地人の女性である。本当に懐かしそうで、本当に親しそうだ。
この人。と私はAさんを見る。彼女に挨拶する人は、この国の主役達ばかりだ。主役。つまり貧しい原住民。物売りの女性。みすぼらしい姿の老婆。この人が相手にしているのは政府の高官でもなければ、実業家の紳士でもなければ、大学のインテリでもない。この人。たぶんこの人は、ある精神を持って生きているはずだ。私の勘がそう働いた。
メルカード
「グアテマラ漫遊記」(7)
「メルカード」2
Aさんは土産物屋のブースの間をちょろちょろとすり抜けて、ひとつの店の前にきた。店を番していた女性がまた歓声を上げる。どうせ同じもの買うならここで買ってやって暮れと、彼女はそっと私に言った。やっぱり彼女が関わったことのある内戦の犠牲者の一人らしい。小さな子供が二人いて、Aさんはそのうちの一人しか知らなかったらしい。お土産を持ってきたけれど、もう一人いたのならもう一つ持ってこなけりゃといって、出直すことにした。
財布だのキーホルダーだのが置いてある。奥を見たらウイピル(この国の女性が着る手織りの貫頭着)やスカート地に混じって、テーブルクロスがあった。私はこの旅行前にチャットの仲間に約束があったので、テーブルクロスを探そうと思っていた。いろいろ見たけど、自分の趣味に合うのがないから、どうしようかと思っていたら、彼女ひょこひょこどこかに行って別のを持ってきた。おや、なかなかいいぞ。気に入った。でも高い。
内戦の犠牲者が自立のために自分で作ったものを売っているとあったら、値切る気にもならず、どうしようかなと思っていたら、Aさんの友達ならいいよ、安くする。といってほんの少しまけてくれた。
私の今回の旅行の目的のひとつは、自分の所属する日本ラテンアメリカ協力協会(RECOM:グアテマラの内戦の犠牲者、特に夫をなくした女性のための自立支援組織)の依頼で、グアテマラの民芸品を買出しすることであった。民芸品は日本で、バザーなどで売って、その売上を活動のため使うのである。だからすべてはグアテマラの原住民に還元されるわけだが、自分たちが造ったものを売っているのも内戦の被害者となると、私の心は複雑だ。安く買えば生産者には多くわたらず、高く買えば、日本で買ってくれる人が少なくなる。それで私は彼女に言った。もう一つ買ってあげるから、今度帰りに寄るときまで、この手のものを入れておいてね。彼女は喜んで、約束した。
別の店に寄った。ここの女主人も内戦で夫を殺害された一人。女性の大半は夫が内戦で殺害されたと思って間違いないようだ。彼女が大声で愛子さんの名前を呼んだ。彼女、どこでも知り合いが多い。店のものはポシェットなどの袋が多かった。レコムの民芸品の中では見かけないものが多い。なんだ、こんなに趣味のいいものがあるんじゃない。レコムはなぜあんなに趣味の悪いものばかり集めてくるんだろう。とぶつぶついって袋を見ていたら、Aさんはグアテマラの民衆の名誉のため、いいものを買っていって日本で紹介しろという。で袋をたくさん買いこみ、もうレコムの買い物はこれでいいと思った。
後は少し自分のためにも楽しもう。小物は手軽な値段をつけやすいから売れるが、大きな、価値のあるものは売れないだろう。もう技術者がなくなりかかっているという手織りの布地を買おうと思った。20年前までは6歳の子供も手織りの技術者だった。今は、Tシャツ時代になった。昔のものはもう高値がついているからたとえ買っていって日本で知らない人に売っても売れないだろう。自分のコレクションにしようと思った。
昼も夜もグアテマラ料理を食べてホテルに帰る。今夜、日本人のツアーの一行が合流するはずだ。総勢12人。ロランドが空港まで迎えに行った。
「織物実習」
数時間遅れた飛行機で、夜の間に、これからいっしょに旅をする日本人の一行がついたのを、私は夢うつつで聞いて朝を迎えた。急ににぎやかになった。朝食をすまして、その日の予定である、織物の実習をしにある一家のところに行くことになった。アンテイグアの中心街から少し郊外にある個人のうちである。お昼はこのうちで家庭料理を食べることになっている。その料理も楽しみだし、機織の実習は、きっと面白いだろう。
かなり期待しながら、二台の小型バスに分乗して、埃っぽい道を行った。しばらくすると、壊れかけた木戸から、ウイピル姿の老女が立って待っている家の前に到着した。愛子さんが例のごとく懐かしそうに挨拶する。一家が全員出てきた。みんなきれいな民族衣装を着ている。一昔前はこの民族衣装は普段着だったからそのときもそう思っていたのだが、後で聞いてみると、われわれの一行を迎えるために、全員が正装をしたのだった。
庭にまるで洗濯物を干すように、できたばかりの手織りの布がたくさんつるしてあった。今更でもないが、うっとりするほどきれいだ。値段も高い。でも、観光客用に、クリスマスの柄のテーブルクロスなどがあって、伝統的なものが後退していた。そういうものを見るにつけ、私の心は寂しくなる。
クリスマスは年に一度のお祭りで、彼女たちの織物はもっと普遍的なものだった。部族ごとの伝統ある織物は、それぞれ意味を持つ鳥や動物が並んでいたり、幾何学模様ですべてが埋め尽くされていたり、見て見飽きないほど、見事な芸術だった。それがクリスマスなどという一時的な行事用の柄にとって変わったのが惜しかった。サンタクロースに柊木の葉っぱ。星と十字架と天使とポインセチア。個性のない見飽きた柄。
お昼のスープは家庭料理だから、ここの地方で取れる野菜がたくさん入った、鳥を一晩煮込んだもので、おいしかった。目の前で焼いてくれるトルテイージャも、熱くて、香りがあっておいしかった。それから炒りたてのコーヒーも日本のスーパーで買うのとは違って、現地の味で満足だった。
コーヒーは注文をしておけば、帰りまでに作っておいてくれるということだったので、3つばかり頼んでおいた。昔メキシコを通過したとき、コーヒーはエルサルバドル産であったにもかかわらず、もって通過するだけなのに、メキシコの物産を持ち出すとか因縁つけられて、税関で取り上げられたから、今度も警戒してたくさん頼まなかったのだ。
メキシコという国は見るべき多くのものが在るけれど、感じ悪い国である。バスの中で背負っていたリュックの中身を空にされたり、滞在の延長申請まで日本とメキシコの両国の取り決めを無視して役人に賄賂を取られたりしたため、もう二度といきたいとは思わない国のひとつになっている。エルサルバドルもグアテマラも不幸な時代だったからいろいろあったけれど、国同士の取り決めを無視するということはなかった。
余談はさておいて、「機織の実習をしたい人!」とAさんが募ったとき、手を上げる人が少なかった。私は全員やるものとばかり思っていたが、そういうことならと手を上げて、インデイオの太ったおばさんに手伝ってもらって、機(はた)に向かった。粗末な単純な機である。日本の民話にある鶴の恩返しみたいな、カッタンコットンと足で操作するような高級なものではない。
縄の片一方を柱に括り付けて、もうひとつの縄を腰に括り付けて、全長1メートルにも満たない機に横棒が数本ついている。糸を通して横棒を立ててぐいぐいと糸をつめていくうち、5センチほどの布ができていくのを確かめた。なかなか覚えられないけれど、おばさんは辛抱強く何度でも教えてくれる。すごく一生懸命やったものだから、とうとう手の指が吊ってしまって、固まって動かなくなった。片手でマッサージしても元に戻らない。それで断念した。記念にそれをはたごと買ったのだけれど、帰りに荷物が多すぎてもって帰ってこれなくなったのは残念だった。
帰りにふと見ると、かわいい顔をした女の子が機に向かっている。6歳の子である。何を作っているのかなれた手つきで織っていた。まだ技術がまったく廃れたわけではないのだなと思ってうれしかった。
資料:“マヤ-生き延びる末裔たち”…取材:小林愛子、文:寺川潔、写真:デニス パット グレイ(ロイター通信、カメラマン)
注;ここに記した内容は、2002年10月から11月にかけて、旅したグアテマラの当時の日記からで、内容的に史実を反映しているかどうかは、定かでない。