「自伝及び中米内戦体験記」7月28日

 「危険な時代の記録」があった。

 

私たちがキロアの家に避難していた、多分一月ぐらいの間の記録は私の日記には書いていない。記録を避けなければならないほど、私は用心していたのだ。記録によって自分たちはおろか、世話になっている家にも迷惑をかける。迷惑なんてものじゃない、生死にかかわる事態がおきる。多くの友人の死を見てきたものの勘のみで、そういう判断が備わっていた。

 

あの一月の間にとったたった3枚の写真のみが、私たちがあの家にいた痕跡を示している。一枚はキロアの二人の子供たちと娘を抱いた私が映っている。もう二枚は主人が娘を抱いてハンモックにゆれている。場所が特定できるものなんか映っていない写真だ。裏には何も書いていない。日付さえ書いていない。

 

昔のカメラは日付が記される装置なんかなかったから、私の記憶以外に何もそれとわかるものはない。主人が乗っているハンモックが自分たちのものではなかったことを私が記憶しているから、これがあの家でとられたものだと言うことがわかるのみである。

 

娘はあの家で一人で寝返りを打つことができるようになった。ベビーサークルの中に寝かせていた赤ちゃんを見に行ったレオナルドが教えてくれた。私が赤ちゃんを一人にしておいても、必ずこの家の子供たちの一人が見ていてくれた。

 

かわいくて仕様がないらしい。「赤ちゃんに触ってもいいですか?」なんていいにくる。すごく控えめな子供たちだった。4歳のレオナルドはついに赤ちゃんに結婚を申し込んだ。すごくまじめな顔をして、「大きくなったらこの子と結婚するんだ。」といって決めていた。

 

後で、私たちが紆余曲折の末、決意して国を離れるとき、空港まで送ってくれたこの家族の長は、4才になっていた娘を指して、「その子はレオナルドの許嫁だと言うことを忘れるなよ。」と笑いながらいっていた。

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あの時代の記録が再び始まるのは、年が明けて2月18日になってからである。しかも記されているのは赤ん坊の成長の記録と、「三国志演義」をのんきに読んでいるなどというくだりだ。

 

変なものをエルサルバドルの内戦下で読んでいたんだなと思う。

 

しかしこの間のエルサルバドルを知るわずかな資料は、実は思わぬところに残っていた。私が教え子の崔さんに出しつづけた手紙である。この人は、私が彼女の担任だった時代、民族的な悩みを共有しようと思ってはじめた「記紀神話」の研究にいつまでも協力をしつづけてくれた人である。

 

記紀の研究がなぜ彼女の民族的な悩みと関係あるかということは、私の仮説にかかっている問題で、私の仮説では、現代の日韓、朝関係の不安定さは、古事記の時代の日朝関係に隠されているということだから。私は、それを理解するために、内外の古事記関係の学術書や研究を読み漁った。その結果、古代の日朝関係史の中に、現代まで続いている両民族の軋轢があるぞと確信したのである。

 

それで、記紀の研究をエルサルバドルの内戦下で、続けている私のために、彼女は日本で新たに刊行された古代史にかかわる本、雑誌、新聞の切り抜き、さまざまなものを送りつづけてくれた。

 

この「内戦体験記」を書くにあたって、彼女を思い出し、「抜けている記録が見たいのだけれど、私が当時送った手紙が残っているか」と問い合わせたら、彼女、膨大な記録の山を日付ごとに整理して送ってくれた。

 

すごい!すべて取っておいてくれたのだ。問い合わせを受けてから整理を始めたらしく、半年ほどかかって送ってきた。ほぼ20年間、彼女は私の手紙を保存しておいてくれたのである。個人的な手紙だから余計なことも書かれてあるが、内戦を内側から庶民として見た記録であるからこれは貴重だ。日本人社長誘拐殺人の記録も、その死に疑念を挟んでいる私の直感的意見も、現地にあってしかわからない貴重な体験談が山ほど載っている。文面を読んでみると、どうも私はこの記録が保存されることを意識していたかのような手紙である。

 

もし私がこのやり取りの、彼女の返事のほうをとっておいたら、繋がりがもっとわかっただろうに、私は彼女の返事のほうは、度重なる逃避行の間に紛失したり処分したりしてしまった。

 

「今にして思えばたまげた手紙」

 

1977年の手紙。

 

内容から察すると、これは、コロニアニカラグアの家にいた時の、エノクの留守中の手紙らしい。

 

「きゅうりとナスが高くなりました。街中物騒で、ほとんど一週間買い物ができず、兵糧尽きて、今日市場に行ったら、一ヶ月も病気で休んだ後に出ていった学校みたいに、みんなの顔がよそよそしく見えました。市場のおばさんたちとは顔なじみだったのに。昨日はご飯だけ食べました。おとといは何も食べずに冬眠を決め込んでいました。

 

私はだんだん「乞食のいる風景」に慣れてきて、日本にいったら、「乞食がいない」風景に驚くでしょう。乞食はばあさんが多く、骨と皮でできていて皮はコーヒー色で多くのひだに覆われています。それがものも言わず手だけ突き出して、町の隅々にくっついています。恵んだことはありません。これは一外国人の慈善の心でなくて国家の解決する問題だと思っています。必要なのは、政治力と軍事力と暴力を備えた革命家の一団でしょう。

 

この国は人々を賭殺場の豚のごとく扱っています。新聞には決して載りませんが、「自由の広場」となづけられた広場は選挙のころになると「血の広場」になります。新聞が伝えることが信用できないので、何が起きているのかわかりませんが、広場で大量の血が流れたということは、見た人が話しているから、事実のようです。逮捕なんて言う手続きをすることなく、ただただ賭殺するのみです。暴力は日常的であるため、誰でも銃を「不法所持」しています。隣のじいさんも六連発銃を持っています。

 

秀吉の刀狩以来身近に武器を見たことがなかった日本人として、身近にそういうものを持っている人間がいることだけで緊張します。」

 

1978年の手紙。

 

「手紙ありがとう。今、胃を病んでいるときでした。病のときに手紙がくるとうれしいです。健康なときとは反応が違います。体全体が下降ぎみのときのお釈迦様のくもの糸に匹敵します。

 

新聞の切り抜き、ありがとう。だけど、日本の新聞も間違っていますね。コロニアという場所は、ただの「何々町」というほどの意味であって、必ずしも高級住宅地ではありません。私の住んでいるところはコロニアだけれど、低級です。ただし、ダンボールで造った家というのもあるから、あれと比べるなら超高級邸宅地です。でもね、コロニアの路上生活者も超高級邸宅地に住んでいるわけですよ。こちらの貧富の差は思考の枠を越えているので、「貧」のほうの人間は「人間」の枠の中に入っているような気がしません。

 

革命とはこういう国に起きるのでしょうね。日本の学生運動コップの中の嵐に過ぎなかったと、今は思えます。」

 

「放火ですか。放火は政府がするのだとこちらの人々は公然といっています。ゲリラがすると伝わっているようですが、ゲリラが放火するという話はこちらでは一度も聞いたことがありません。消防車はすっかり都合よく焼け終わってから、後片付けにくるのみです。類焼なんて言うものはありません。燃えるべき場所は計画されているのですから。」

 

思い出したけれど、あのころ町に放火が頻発していた。政府軍がゲリラの拠点と見たところを襲撃するのだといううわさが立っていた。それが日本に伝えられるときは、ゲリラが放火して、政府軍は火消しに回っているということになっていたらしい。松本社長の殺される前夜だったから、エルサルバドルのような小国の事件も日本に報道されていた時代のことである。

 

1979年の手紙。

 

エルサルバドルでは日本の新聞で伝えるほどの大騒ぎはしていません。ただ、ちょっとバスが4,5台焼き討ちにあったり、どこに行ってもポコポコ撃ち合いの音が聞こえたり、交通が遮断されて麻痺状態に落ちたりしているだけです。たいした事はあまり起きていません。」

 

つまり上記の記述が「大したこと」ではなかったのだ。

 

80年から81年にかけて、内戦はかなりの激しさだった。地方の戦いは激戦で、家を追われた人々が都市にあふれた。普通の庶民が行くような店にも、町の通りにも爆弾が仕掛けられていて、何かわからない包みをちょっと興味を持って触れただけで、それが家の3軒ぐらいふっ飛ばすような威力を持っていた。

 

私がよく通ってマヤの説話などを買っていた本屋も吹っ飛んだ。町は不具者に満ち、物乞い、かっぱらいがあふれた。歌が歌えるものは歌を歌って、帽子にお金を入れてもらって、その日を生きた。

 

町は物騒でうっかり外を歩けない。装身具など身に着けて歩くと、とんでもないことになる。指輪は指ごと持っていかれ、腕輪は腕ごと持っていかれ、ネックレスは首ごと持っていかれるから、装身具を身に着けて外に出るなと、私は土地の人から注意を受けていた。

 

つまり自分が生きぬくために簡単に人が人を殺した。そういう風に物騒だったけれど、生きていくためには外を歩かなければならないから、外出のときは子供を家において、飛ぶように買い物を済ませ、死体の数人ぐらい飛び越えて、そのことに対しては全く何の感情もなく、「犯罪者」がよくそう表現されるみたいに「何食わぬ顔で」暮らしていた。

 

 

あの時子供を家においてきたのは、その昔母が話してくれた、満州引き上げの物語が頭にあったからだ。赤ん坊を背負って逃避行をしていた列にソ連軍が発砲をしてきて、安全地帯にたどり着いたときは、背中の赤ん坊は頭がなかったという話。私の家族は満州にいたが、敗戦になる前に日本に帰っていたから、これは母の体験ではなく、母の後から艱難辛苦の末日本に戻ってきた、満州時代の母の友人たちの話である。

 

この話は子供のころの記憶としてはかなり強烈で、いつまでも心に残っていたので、エルサルバドルの現実を生きていたその当時、赤ん坊を連れて逃げるときは荷物を背中に、赤ん坊は胸に抱いて逃げようなどと私は、心の中で逃亡の準備をしていた。

 

そして、背中に荷物を背負い、両手をあけておくという習慣は、日本に帰ってからも身についてしまって今も変えられない。

 

エノクは私が死体を飛び越えて買い物に行った経験を知らない。それはみな彼がいなかったとき、彼の協力を得られなかったときの経験だから。79年に大学が政府軍に占拠されて閉鎖されてしまったとき、彼は教授という身分を残したまま、エルサルバドル電電公社にあたるCELという会社勤めになった。その会社からはよく地方に出張していたし、国外にも出張していた。危険地域をよく通ったし、何よりも彼は政府に反政府運動の温床と目されていた国立大学の助教授だったから、それだけで、危険はいつも隣り合わせだったのだ。

 

しかしこの危険が家族に及ぶということも、または私が危険を犯して買い物に行っているということもしらなかった。というか、私自身の感覚として、自分が「危険を侵している」という意識はなかった。

 

私がそういう生活をしていることをいちいち彼に言わなかったのは、それが「異常」ではなかったからだ。死体を飛び越えて生活するという「常識的な」日常を生きていた私が、これが「常識」ではないと言うことを知ったのは、帰国してこの話を「何の気なしに」人に言ったとき、相手の唖然とした表情を見てからである。

 

何でこんな普通の話をこの人、馬鹿みたいに驚いて聞くんだろう、とそのとき私は思ったものだ。

 

80年には国立大学の学長が暗殺されている。この学長の前任者も、まだエルサルバドルに多くの日本人がいたころ暗殺されているので、もう、学長暗殺のニュースにあまりショックを受ける人はいなくなったらしく、私の耳に聞こえてきたのは一週間後だった。かのロメロ大司教が、まだ娘がおなかの中にいた3月に暗殺されて、国内情勢はもう、何が起きてもニュースになんかならないほど非常事態が「あたりまえ」の世界だった。

 

家のすぐそばで撃ち合いがあるときは、少なくとも音が聞こえる間は外出できない。聞こえなくなると、人間というものはすごいもので、すぐに忘れて平気で外出することができるようになる。

 

日本の新聞記事に載る殺人犯は、いつも「平然と」「薄ら笑いを浮かべて」「何食わぬ顔で」日常生活を続けているのが常だけれど、私たちも人の死にドラマチックな反応を見せるほど、その事実は反日常的な出来事ではなくなっていた。