心の時代:仏教
一度聞いた「こころの時代」の再放送を、又聞いた。仏教なんだけど、気になっているところがあって、もう一度聞きたかった。講師は私の苦手なせんせだけど、学者だけあって、怪しい知識で民を惑わすようなことをしない。仏教の中心思想は何かとか、ブッダと呼ばれる者はどういう者かとか、悟りとか、修行とか、解脱とは何かとか、基本的な意味を語っている。ネット検索で正しい知識が得られるわけではないから、本物の学者の意見が聞きたい。そのためには、かなり信用置ける学者らしい。
それによると
1)ブッダは固有名詞でなくて、普通名詞である。故に目指せばだれでもなれるものであって、人種、性別、貧富の差、貴賎の別、さらに自分が依って立つところの宗教の別もなく、人間の進むべき道を守って生きていけば、いつかは到達する「境地」である。それは自ら「なった」なった」と喧伝するようなものでなく、他人の目から見て、完成された人間のように見えた時、其の人はブッダと呼ばれるのである。
2)世界の事象はすべて「縁」によって成り立っているもので、多と無関係に個体で存在する物はない。
3)五感で把握できるすべての物は「空」である。
4)煩悩を超越することを「解脱」といい、修行はそのためにするものであって、解脱することによって、人は永遠の平安を得るのである。
他に「神」の話があったが、私には、仏教徒が言う「神」と言う存在は、やっぱり人間の一種で、まったく理解できない異種の人間のように思える。とにかく、人間が到達できる最高の境地に達した人を仏教では「ブッダ」と呼び、「神」と呼ばれる者はやっぱり人間の一種で、ブッダにいたるまでの中間的「いい人」ぐらいの人間集団らしいのだ。
私はいろいろの種類の仏教徒の話を総合して、この「神」と言われる集団は、仏教以前にインド人の中で伝統的に信仰されていたバラモン教の神々への信仰から解放されない人々に対して、とりあえず、妥協的に残した存在としか思えない。
実はネットで出会ったある仏教徒風の人物が、「仏教では修行によってブッダになれるのに、キリスト教では何したって神になれないじゃないか」と言っていたのを聞いてかなり当惑した記憶がある。この人、キリスト教も仏教そのものも、理解していないんじゃないかと思ったから。別にキリスト教の目的は、何かに「なる」ことじゃない。「救い」とは「なる」ことではないのだから。
キリスト教で誤訳によって「神」と和訳している「存在」は、「在る」ものであって「成る」ものではない。もともと古代の英雄が「神」と呼ばれたらしい、仏教の神々は、もともとは人間であり、日本の古来の宗教で「神」と呼ばれている者は、古代の英雄が死後昇格したか、または「不可思議な事象」の人格化である。
仏教の唱える「ブッダに到達すべき人の道」は、初めから「神」と言う存在を想定していない。あれはバラモン教との妥協的産物であって、スッタニパーダの冒頭に、うかがえる「神々が釈尊の前にひれ伏した」と言う表現は、釈尊がバラモンの神々を超えたという意味だと、昔私を導いた真宗男が言っていた。つまり、釈尊はバラモン教の改革者だったのだ。
ところで、仏教の教えと言うものは、あくまでも「人の道」であって、神仏への信仰を主張する物でも、強要する物でもないらしい。なにしろ、ブッダになれるものは、「人種、性別、貧富の差、貴賎の別、さらに自分が依って立つところの宗教の別もない」のだから。釈迦の教える人の道を守って生きる先に永遠の福楽の境地があるという教えなんだから、間にバラモンの神々なんか不要である。そんなものに「なら」なくても、お釈迦さんは文句はいわんだろう。
なお、いつもの決まり文句だけど、上記の記述は私の我田引水的記述であって、だから、心の時代の講師の名前も書かなかったのである。
それによると
1)ブッダは固有名詞でなくて、普通名詞である。故に目指せばだれでもなれるものであって、人種、性別、貧富の差、貴賎の別、さらに自分が依って立つところの宗教の別もなく、人間の進むべき道を守って生きていけば、いつかは到達する「境地」である。それは自ら「なった」なった」と喧伝するようなものでなく、他人の目から見て、完成された人間のように見えた時、其の人はブッダと呼ばれるのである。
2)世界の事象はすべて「縁」によって成り立っているもので、多と無関係に個体で存在する物はない。
3)五感で把握できるすべての物は「空」である。
4)煩悩を超越することを「解脱」といい、修行はそのためにするものであって、解脱することによって、人は永遠の平安を得るのである。
他に「神」の話があったが、私には、仏教徒が言う「神」と言う存在は、やっぱり人間の一種で、まったく理解できない異種の人間のように思える。とにかく、人間が到達できる最高の境地に達した人を仏教では「ブッダ」と呼び、「神」と呼ばれる者はやっぱり人間の一種で、ブッダにいたるまでの中間的「いい人」ぐらいの人間集団らしいのだ。
私はいろいろの種類の仏教徒の話を総合して、この「神」と言われる集団は、仏教以前にインド人の中で伝統的に信仰されていたバラモン教の神々への信仰から解放されない人々に対して、とりあえず、妥協的に残した存在としか思えない。
実はネットで出会ったある仏教徒風の人物が、「仏教では修行によってブッダになれるのに、キリスト教では何したって神になれないじゃないか」と言っていたのを聞いてかなり当惑した記憶がある。この人、キリスト教も仏教そのものも、理解していないんじゃないかと思ったから。別にキリスト教の目的は、何かに「なる」ことじゃない。「救い」とは「なる」ことではないのだから。
キリスト教で誤訳によって「神」と和訳している「存在」は、「在る」ものであって「成る」ものではない。もともと古代の英雄が「神」と呼ばれたらしい、仏教の神々は、もともとは人間であり、日本の古来の宗教で「神」と呼ばれている者は、古代の英雄が死後昇格したか、または「不可思議な事象」の人格化である。
仏教の唱える「ブッダに到達すべき人の道」は、初めから「神」と言う存在を想定していない。あれはバラモン教との妥協的産物であって、スッタニパーダの冒頭に、うかがえる「神々が釈尊の前にひれ伏した」と言う表現は、釈尊がバラモンの神々を超えたという意味だと、昔私を導いた真宗男が言っていた。つまり、釈尊はバラモン教の改革者だったのだ。
ところで、仏教の教えと言うものは、あくまでも「人の道」であって、神仏への信仰を主張する物でも、強要する物でもないらしい。なにしろ、ブッダになれるものは、「人種、性別、貧富の差、貴賎の別、さらに自分が依って立つところの宗教の別もない」のだから。釈迦の教える人の道を守って生きる先に永遠の福楽の境地があるという教えなんだから、間にバラモンの神々なんか不要である。そんなものに「なら」なくても、お釈迦さんは文句はいわんだろう。
なお、いつもの決まり文句だけど、上記の記述は私の我田引水的記述であって、だから、心の時代の講師の名前も書かなかったのである。