Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

奇跡の意味

テレビをなんとなく見ていると、バラエティー番組とか娯楽番組なんかによく、奇跡とか超常現象とかを操るご仁が登場する。スプーンを曲げたりフォークを曲げたりして、もてはやされているけれど、まあ、職業としてなら、そういう職業があってもいい。ヒトが楽しむなら、許容範囲だ。まあ、私は、どうせ楽しむなら、古典落語のほうが好きだけどネ。

古典落語には、意味があるし、生きる知恵が山ほど入っている。だけど、ああいう「奇跡」には、何も入っていない。フォークをまげて喜んだり楽しんだり、または、どこかの新興宗教の教祖様のように、空を一瞬飛んだとしても、飛べるということが他人に利することが何もない奇跡なんて、宗教としても意味がない。人生の見方が変わったり、何かいい結果が起きたりしない。だいたい、何のためにそういうことを生業にするのか、さっぱりわからない。ヒトがわーーーっと喜び、拍手喝采して、大儲けして、それで終わり。

かりに死んだ人をよみがえらせるという奇跡があったらどうだろう。悲しんでいた家族が一時的に喜ぶかもしれない。しかし、ヒトは死んでよみがえっても、必ずまたいつか死ぬ。なんどよみがえってもやっぱり死ぬ。そういう奇跡を起こしたところで、むなしいだけで、あまり意味がない。凄い凄いと喝さいを浴びただけで、一時的に座が盛り上がるだけだ。

だったら、聖書に書いてある、「奇跡」とは、いったい何だろう。イエスという人は、盲人の目が見えるようにし、らい病を治し、奇病を治し、先天的な難病を治し、死者をよみがえらせ、さまざまなありえない奇跡を起こしながら、彼自身は死に、そして復活したとされる。

それを目に見える現世的な「奇跡」と考えるならば、宗教そのものの在り方として、意味があるのか?どうせ死ぬ人の命をよみがえらせ、どうせ死ぬ人の病を治す、聞いたって、誰も信じられない、そういうむなしい信仰をひろめるため、一民族をすべて殺して、いわゆるキリスト教陣営を広げてきた西欧列強は、それでなにを得たのか?得たのは、地上のどの宗教もその価値を否定するところの、世界の覇者としての地位だけだろう。

エスは「復活したという信仰」が2000年にわたって、地上の数々の民族に、引き継がれてきたのは、歴史的事実である。しかし、その「復活体」は、現実の生活の中で、イエスという男が、町の中を歩いていたり、一緒に酒を飲んだりするような現世的姿として「復活」しているわけではない。すれ違って臭いを感じたり、くしゃみをしたり、ラーメンを一緒に食べたり、公衆便所に入ったりするような姿で復活したわけではない。

エス様に「出逢った」とか、「触った」とか、「感じた」とか、いろいろな現世的表現でもって、彼は死後、世界中の人々に「ある」影響を与えてきたのも事実であるが、それは一緒に花見したり、顔洗ったりしたということではなく、「出会うことによって」一人の人の人生の方向が変わるような、そういう形の「復活体」であった。

だとすれば、彼が起こした奇跡というのは、「またいずれ死ぬ」人体の「一時的蘇生」ではなく、不治の病とされた難病の「医科学的治癒」ではなく、生きながらにして「死んだ状態」の人々の魂に、息吹を吹き込んだという意味ではなかったのか。

そして彼自身の肉体が死んだあと、その「復活体」はすでに「体」ではなく、「組織」の存続に都合のよい「掟」や「行事」や「決まり文句」でもなく、「現世に具現した、自己の力を過信した教祖」と呼ばれる人々の「教団」の中でなく、歴史の中のあらゆる人々、あらゆる事象のなかで、路傍に転がるホームレスを通し、電車ですれ違う未知の他人を通し、コインロッカーに捨てられる赤ん坊を通し、必要な人々に語りかける、ひそかなひそかな囁きのような「言葉」として、永遠に近く復活し続ける「神秘の体」としてとらえるほうが、宗教として、意味が深いのではないかと、この「私」は考える。