Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

展開1

聖書に関するこれまでの記述も、以下の記述も、私が通っている聖書講座から、ヒントを受けて考えたことは確かだが、私個人の展開である。私個人には、学問的裏付けがあるわけでなく、自分の心のために記すものであって、他人に主張したり、他人に布教したりする目的は、さらさらない。読んで気にいらぬ場合は、敢えて、喧嘩を挑まず、逆布教を試みることなく、放置されよ。

たぶん、あなたが正しく、私が正当ではないのであろうが、もとより、承知の上である。争う気はもともとない。矛を収めよ。正当で、陰りなきご仁方。

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昨日聖書講座で、確認したことの最大のものは、新旧両聖書における、「幸い」の条件の決定的な違いだろう。

ただ、「幸い」の条件に関して、講師があげた旧約聖書における例は、あまりに専門的で、個人的に納得はするけれど、私としては自分で噛み砕く必要があると思った。

結論から言うと、旧約聖書における「幸福」は、富とか、社会的地位とか、子宝(つまり子孫の繁栄)とか、案外常識的で、地上的な、目に見える状態を意味する。彼らが「神から約束された地」と考えたものは、あくまで、地上の実り豊かな地であって、救いという言葉も、イスラエルという国家が地上において覇権を獲得するという意味にとらえていた。そしてその幸福な状態は、トーラー(神が指示した道:律法)を守ることによって与えられ、与えられていない場合は、本人に何らかの落ち度があると、考えられていたらしい。

私なら例として思いつくのはヨブ記である。ヨブは義の典型のような人であった。ところが彼は主に仕える義の人であったにもかかわらず、財産をなくし、家族を亡くし、しかも病を得て、多くの試練の末、時には神をのろいながら、最後には神へ立ち返るのだが、そのヨブにたいして、神は、失った財産を戻し、家族を戻し、ヨブはもと通りの豊かな状態に戻って、何かめでたしめでたしで終わる。

ここには、やはり「幸福」というものがかなり地上的なものとして描かれている。神は結局、ヨブに富と地位と、繁栄を与えるのである。

新約聖書におけるイエスの言葉からうかがえる「幸福」は全くの逆で、「貧しいもの」「飢えているもの」「悲しむもの」が幸いであると彼は言う。病気や苦しみは、本人が罪を犯した結果ではないのか、という質問に対して、イエスは「そうではない、個人の病や苦しみは主が栄光を表すためにある(文面通りではない。あくまで私の展開)」と答える。

エスが貧しさや飢えや悲しみや迫害のあとに約束するものは、あくまで「天の国」であって、彼自身は十字架上で刑死する。

これはいったい何なのだ。少なくとも、彼の意味する「幸い」が、受け入れられるはずがない。

ところで、イエスは病人を一言で癒したり、死者をよみがえらせるという記述があるが、そういうイエスの「幸福観」を見てみると、それは、ただの奇跡話とは思えない。病んでいたものを癒す、死んでいたものに命を与える、ということが、ただの一時的な奇跡なら、誰でも人はどうせまた死ぬのだから、その癒しに意味がない。

意味があるのは、人間の「闇」の状態から「覚醒させ」、「死」の状態から解放して「生命を与える」のが、イエスの使命だということ。

そうでなければ「死者のうちから蘇り」という言葉が、おとぎ話の世界になる。そんなことをただやみくもに「信じている」ところに、いかなる「救い」があろう。