Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

召命について

召命について

「召命」は「しょうめい」と読む。「召し」ともいう。新教出版の聖書辞典には「召し」という言葉で載っている。

で、その「召命」とは、第一原因たる原存在(神と誤訳されている存在のこと)が、一方的な理由で、人間を選び、一働きさせることである。ただし、この説明は、私個人の言葉だから、面倒だけど、以下に新教出版の聖書辞典における「召し」の定義を載せておく。

★神が人を呼び出し、招いて神の業に参加させることを意味する。特に新約においては、信仰によって救いに入れられることにまで、ふれている。(1コリ1:9,26、エフェ4:1)。従って、信者の群れは「召されて聖なる者となった」(ロマ:7,1コリ1:2)のように召しという言葉が用いられるのは、救いが人間的業によるものではなくして、神からの招きであり、神自身の主体的業ということを表すためである。以下略。

この言葉は、宗教的環境の違う日本にはないため、ひどくありえない特殊な状況と誤解されやすいが、西洋語の「職業」を表す言葉の語源は、この「召命」だそうである。つまり、手っ取り早くいえば、すべての人間の職業、または、役割は、第一原因たる存在からの「召命」によるのであって、しいて、日本語訳すれば、人間の役割はすべて「天の配剤」、「天職」によると言ってもいい。

別の宗教環境で常用されている言葉を日本語に訳す時、歴史や宗教や、歴史観や宗教観から派生した一般用語を、日本語の中に、どれだけ丁寧に探し、見つけ出すかによって、別の宗教が受け入れられるか否かが決まるのではないか、と私は思う。

日本人にとって、「神」という言葉は、いかにもいかがわしい存在で、騙されそうな代物なのだ。日本人は意識しようとしなかろうと、天命とか、天職とか、天の配剤とかいう言葉を、日常的に使っている。語源など考えず、哲学的背景など思いもよらず、がきんちょから爺婆に至るまで口にする。

「天は人の上に人を作らず」と偉そうなことを言った福沢先生も、別にキリスト教徒じゃない。人力で起きたこととは思えない、わからないことを動かしたのは「天」と表現する。これは、日本人の知恵じゃないの。どうせ、「天」と呼ばれた存在は、人間がつかむことのできるようなちっぽけな存在じゃないから、ぼかし表現が一番適切だ。

それを使えば、わけのわからないいかがわしい言葉が、通じるじゃないの。日本のキリスト教徒よ、バタ臭い言葉に酔ってないで、もっと日本語大切にしたら?

で、脱線はそこまでにして置いて、本題を続ける。

昨日の雨宮神父によると、宗教用語、とくにカトリック用語としての、この「召命」という言葉は、広辞苑にも第4版まで載らなかったほど、特殊用語扱いだそうだ。なにしろ、「神の招き」なんだから、特別な人間がある日突然神の声を聞いて、ひっくり返るほど驚いて、あわてて修道院に飛び込んじゃうみたいな言葉として受け取られている。(だって昔の教育では、そう教えられたんだから、信者が馬鹿だったせいじゃないよ)

ところで、雨宮神父によると、「結婚生活を選ぼうと、独身生活を選ぼうと、そこに神の声が響き渡ったりしないのであって、自分は神の声など聞いたことないのに、こういう道にのめりこんじまった。ただし、のめり込むに至った背景に、ある大きな力が働いたことは確かだ」そうだ。自分のことだから、彼は、その程度を言って、会衆を笑わせ、そのまま知らん顔で、聖書講座を続けたけれど、私は、そのぺらりと言った言葉を逃さなかった。

独身生活を選ぶ「決意」、結婚生活を選ぶ「決意」、ある職業を選ぶ「決意」と、いかにもすべてが人間の自主的な「決意」で行われたように、人は信じているらしいけれど、その「決意」に至るまでの状況は、「私」が主体的に作ったものではない。

私はかつて、神の声を聞いてぶったまげて修道院に飛び込んだ。(なんて、うそだよ。)私はかつて、ある学校の教壇に立っていて、あるとんでもない野蛮国の男と出会った。神様めが、その男と結婚しろというんで、万難を排して結婚した。(なんて、うそだよ。)そうしたらその男の国がどんぱち内戦をおっぱじめ、8年我慢して生きていたけれど、とうとう逃げ出さなきゃならなくなって、いろいろ受け入れ国を探したけれど、帰りたくもない日本に、お前、帰れと、神様が言うんで仕方なく帰って来た。

それから26年、もう、神様、疲れちゃったと見えて、何も言わないので、私は日本で死ぬらしい。ところでね、また、思い出したのがマリイサベルのこと。

「召命」というのは、第一原因たる存在の一方的判断で、これと思った人間を選び、本人の意思にかかわりなく、「使う」ということらしい、その例として、再び、マリイサベルを登場させる。

私は内乱のエルサルバドルに8年滞在した間、自分と自分の家族の安全しか考えていなかった。私は他人の子が死んでも、自分の子だけ助けたかった。8年もいれば多くの人と出会い、多くの人とかかわりを持ったが、日本に帰る時、別れて特別悲しいと思うような人がいなかった。一家3人が安全地帯に行けば、それでよかった。冷たい、自己中心的な、ごく当たり前の「あなたと同じ」人間だ。

その私が25年たって、エルサルバドルにいる家族を尋ねたとき、マリイサベルという「見知らぬ女性」が私を訪ねてきた。彼女によると、私は「生まれて地上で出会った、最も尊敬する恩人」だそうだ。そんなこといわれたって、わけわかんね~~。というのが、私の感想だった。

エルサルバドルに滞在したころ、数人の使用人を使った。その中の一人が当時10歳くらいだった、マリイサベルだった。元教師で教壇から去ってほやほやのにわか専業主婦だった私は、小学校に行くべき年齢の子供が、親元離れて使用人として他人のうちで仕事をしているという状況を見て、放置できなかった。それで、彼女に教えたのが、文字の読み書きと、お釣りの計算ぐらいできるように足し算と引き算だった。料理も手伝わせたから、それも彼女の中では「教えた」ことになっているらしい。

つまり、手っ取り早くいえば、この私は、神様の声なんか聞くこともなく、まったく自覚を持たず、マリイサベルの「恩人」になっていた。彼女の記憶にあるように「かわいがった」覚えは全くない。名前も忘れ、存在も忘れるほど、私の中では無に等しかった。

彼女によると、私の家に来るまで、彼女は満足に食事もさせてもらえず、学校なんかほとんど行かず、いじめられこずかれて人生の初期を過ごしていたそうだ。私と出会った1年間以外に、ほとんど人間らしい人間を見たこともなく、彼女の思いの中で、出逢った私の姿は、「読み書きそろばんを教えてくれ、料理を教えてくれ、生きる基礎を教えてくれた唯一の人間」として、だんだん理想化され、美化されていくうちに、「あの人を自分の人生の途上で送ってくれた神様」に感謝し、足が教会に向いたそうだ。

あんれま!

これって、上記の聖書辞典にある、「召し」の定義そのものじゃないの^^。ここに、仏教用語でいえば、「自力」などどこにもなく、すべてが「他力」による、結果的にはある少女の「救い」に至る過程の物語で、機会があったら「説話集」なんかに収録したいくらいだわ。ついでに、使われた人間が、人間嫌いで、毒舌家で、偏屈者で、聖人伝になんか載りそうもない婆さんだったことも付け加える方がいい。

別の偏屈者のはげみになるからね^^。