Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「こころの時代」メモ

「こころの時代」

今日の発見は、二つの言葉に絞り込む。1時間、無駄のない話を続けたのだから、もっとあるのだけど、二つの発見というのは、私が元々知りたかったことの答えだ。

その1:「7の70倍赦せ」の意味。原語の意味は490回という数字ではないことは、明らかなのだけど、訳語というのは、訳された外国語の意味の範囲が違うから、そこに根本的な誤解をうむ。

「7」という数字は、聖書の世界では「完全数」だそうだ。つまり、7の70倍とは、無原数の意味。つまり、すでに「数」ではない。「罪」とはヤーヴェから離れた状態で、特定の個人に迷惑をかけたというような、状態ではなく、ヤーヴェとのかかわりが閉ざされたという意味らしい。

なお、当時の「掟」では、3回まで赦せということになっていたらしい。この場合の「3」という数字は、文字どおり3。ペトロがイエスに尋ねた、「どのくらい赦さねばならないか」という質問も、回数を聞いたのだけど、イエスは、回数で答えたのではない。

もう一つは、「悔い改める」の意味。聖書用語の「悔い改める」は「後悔」とか「懺悔」というような、日本語の意味の範囲では到底説明ができない状態で、離れた心をもう一度ヤーヴェのうちに向け直す、現代のカトリック用語で「回心」。つまり、ひとりでくよくよ後悔しているのでなく、自分では到底背負いきれない罪を認めて、ヤーヴェに心を向け直す態度。救いというのは、たぶん、「人間一人では持てあますような心の闇を、闇を持ったまま、神が引き受ける」という意味。

「あがない」もそういう意味なんだろうなあ。実は、キリスト教の根幹にある、この「あがない」というドでかい言葉の意味が、69年信者のふりをしていても理解できないでいる。

この「罪を悔い改める」の意味が、仏教用語の懺悔ではないということだけ理解できた。自分が一人で悔やんで悲しんで、人間は存在からしてこうなのだからとあきらめる状態でなく、もともと「自分一人ではどうにもならない、心の状態を、ヤーヴェに拾ってもらう」こと。他人との関係でなく、ヤーヴェとの関係を取り戻すこと、だそうな。それを「主に立ち返る」と表現する。

日本語ってどうしようもない。こういう言葉が説明なしに聞かされると、気障で聞いていられない。

聖書におけるお金の単位。これも初めて知った。

一万タラントンの借金は、王の家来が一生をかけても、何度生まれ変わっても支払えないほどの金額で、その家来が仲間に貸していた金額は百デナリオン。百デナリオンは3か月分ぐらいの給料らしい。王が一万タラントンの借金を帳消しにしてやったのに、その男は仲間の百デナリオンの借金を赦さず、牢に入れた。

一人の人間が背負えないような重荷さえ、神は赦すのに、その男は六十万分の1の借金を要求して、相手を牢に入れたというたとえ話。これも、金額の意味がわからないと、とらえられないたとえ話だ。

「ユダの扱い」
なんだか、嬉しかったこと。あの神父さん、「正常」だ。

イスカリオテのユダというのは、イエス様を銀貨30枚で売ったということで有名な弟子。「赦し」という問題で、この弟子に関する限り、カトリックプロテスタント諸派も、「赦さなくていい人間の代表」みたいな扱いをしてきたのが、歴史的事実だ。

それを、今日の相手が、質問していた。その質問に対して、彼、こういった。

「ユダが神様の赦しに預かっているかどうかは、神様の特権事項で、我々がとやかく言うことではない。」

ぱちぱち!!大喝さい。「神様の永遠の赦し」の話しに、例外があるのがおかしい。信仰箇条みたいに勝手に決まりを追加して組織の都合を優先させるのは、もういい加減にしてほしい