「7の70倍考」
「7の70倍考」
人はどのくらい他人を赦さなければならないか、という質問に対して、7の70倍赦せと、イエズス様は答えたと、日本語訳の聖書には書かれている。
字面を訳したのだろうけれど、数字というものは、どうも、人間の内部の問題である罪に関する表現としては、不協和音を起こすものだなあ、と私がいつも感じている。7の70倍なら490回で、491回からは赦さなくていいような、馬鹿なことを言うやつもいるんでね^^。
聖書の言葉は、すべて救いの道の話なんで、救いとは他人の救いよりも前に自分の救いであるべきなんだということも、実は書いてある。
他人の目の中のごみを数える前に、自分の目の中の粗大ゴミを気にせよと、同じイエズス様は言っているしね^^。
仮に、その7の70倍という表現を借りれば、人は他人から受けた1つの被害について、7の70倍恨むだろう。その恨みから自己を解放するためには、7の70倍の赦しが必要だ。そう、イエズス様は指摘したんじゃないかな。
と、考えれば、この言葉が、他人の罪を数えて、自分が高所に立って、赦してやる、という意味にはならない。
人には他人を「赦す」などという権限は、初めから持っていないほど、罪障深い存在として生まれている。「赦し」があるとすれば、それは自己を自己にしがみつく執念から解放すること以外にない。「赦し」という日本語は、どうも、自分が他人に対して高所に立って物を言っているような趣がある。自分はあくまで潔白で、悪いのは自分以外のすべてだと、そう思わなければ「赦し」などという言葉は出てこない。
自民族を神の選民と信じ、律法を神の言葉として守り続けてきたイスラエル人は、イスラエル人以外に人間はすべて敵と考えたんだから、自分を見つめ直せという指摘は、受け入れられなかっただろうなあ。やっぱり十字架にかける以外になかっただろう。
出身民族である中東人からも受け入れられなかったイエズス様の言葉が、さらに傲慢ちきの極致にある西洋人経由で日本語になると、どうも途中でひん曲げられて、真意が伝わっていないように感じる。
第一原因としての神の存在など、初めっから念頭にない仏教の考え方では、あくまで自己を徹底的に見つめることによって真理を見出すらしいから、自分が他人を「赦す」という言葉はないなあ。人間は、誰もかれも無明であって、無明同士が赦したり、支配したりするという考えがない。
と、幸い門外漢の私は思う。門外漢は組織の伝統や儀礼やしきたりにとらわれないからね。