Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

ちょっといい話

体中の痛みで、眠りに眠って、目が覚めたのが朝の2時。

ところで、昨日来たエルサルおしんが、アロエで痛みどめのジュースを作ってくれると言っていた。昨日はそのまま帰ったけれど、今日も来るという。

行くつもりだった教会に二日間、いけなかったから、今日は娘もいるんだし、エルサルおシンが7時ごろ来てくれると言っていたから、自分の食事だけして教会に行くぞと、宣言していた。例のパンだけ置いておけば、あとはコーヒーでも作って自分で食べるだろう、野菜しか食べない娘は、ある野菜を食べるだろう。6時半に教会の鐘が鳴ったので、自分の食事をして、さっさと支度して、家を出た。

ミサが始まる前、ある女性が、今日は、分かち合いの日で、祭壇の前に置いたかごに、分かち合いのために用意したものを入れるようにという説明があった。実は何の事だかわからない。日本の教会では、そういう行事にであったことがない。

ミサが進んで、奉献の前に、神父さんが分かち合いについて音頭をとったあと、手に何か袋を持った人々が、前に進み始めた。私は知らないから、何も持ってこなかった。どうも、貧しい人々への施しとして、自宅にある食料を集めてこさせているらしい。よく見ると、お米だの、豆だの、トウモロコシだの粉だのの袋を持ってきて、みんな籠に入れている。

ほう!と思った。なぜ、ほう!と思ったか。

実は前に出て行って、施しをしていた人々は、姿でそれと知れるのだけど、みな貧しい身なりをしていて、どう見ても金持ちは一人もいなかった。「分かち合い」という行動は、貧しさの体験を自らしないとできないんだ。

エルサルバドルの教会には、まだ本物の信者がいるなあ、と、思った。内戦時代の8年間、この国に暮らしたことのある私は、さんざん、「本物の信者」と「本物の教会」を見てきた。「本物の殉教者」までみちまった。「分かち合う」の精神とは、「余ったものを人にくれてやる」精神ではない。「今日食べるものを減らしてでも他人に分ける」精神だ。

少しいい気分になって、教会から帰る途中、歩く目の前に、木の実が落ちてきた。その木の実は、今かじられたばかりみたいだったので、何がいるんだろうと思って、上を見上げたら、灰色の栗鼠がアーモンドの実をかじっていた。かわいい。しばらくそれを眺めた。

実は、体操もできず、自転車もなくて運動ができなくなった状況を、教会に行くという口実で毎朝打開しようとしていたのだけど、なんだか、実りがありそうなのを喜んでいたときに、栗鼠にまで会って、うれしかった。私の精神の健康は、自然の中で取り戻せるから。