Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

もう一つ未消化の問題


「プシュケー」と「ゾーエー」

このところ私が続けて読んでいる「今日のみことば」という冊子の10月17日の「み言葉」の解説を読んでいて、ちょっと発見したこと。それは和訳では「命」あるいは「魂」と訳される言葉は、原語では2つあるということだ。

みことばの箇所はルカ福音書12章13節~21節。遺産相続の調停を頼まれたイエスが、それを断わって、相手に言った言葉と、その相手の言った言葉の中に出てくる「命」について。同じ「命」でも、調停を頼んだ方の言葉は原語では「プシュケー」で、イエスがそれを断わって言った言葉は原語では「ゾーエー」。

「プシュケー」は、新共同訳聖書には、直訳されていないから指摘しにくいが、金持ちが自分の蓄えで守る「命」とか「魂(精神的な意味ではなく、人間を生かすもの:生命)」と言う意味だそうだ。

一方イエスのセリフの中にある、「有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできない」の中の「命」の原文はプシュケーでなくゾーエーだそうだ。つまり、同じように「命」と和訳される言葉は、原文では別の二つの言葉であって、金持ちが蓄財で持って守ろうとする自分の「命」と、イエスが意味する「命」はこれも次元が違うものだという。

「次元が違う」と昨日から私がつぶやくのは、この世の秩序の中に生きている我々は、一つの言葉を聞いても、その言葉を自分の生きる世界の言葉として受け取り、「命」と言われれば、肉体的生命と受け取る事に慣れている。仮に「この世の命」「あの世の命」と言うふうに区別しても、「あの世」さえ「この世」の延長で、この世で夢見た享楽の世界があの世にあるみたいな夢を見る。

しかし、イエスは始めから、食物や財宝で保たれる命など問題にしていなかった。彼のいう「ゾーエー」は、たぶん、訳すことができないのだろう。「人間を真に生かす根本のもの」「人間存在のもと」「永遠そのもの」を、イエスは「ゾーエー」と言う言葉で意味していたのではないのか、今日の「今日のみことば」を私はそのように読んだ。