カナン人の女性の「突っ込み」
「子犬扱いされた女性から、イエス様が学んだこと」
今日の松戸教会の説教は、「多分」面白かった。「多分」と書くのは、実は、例の日本語が怪しい外国人の神父さんの説教で、「私が理解したこと」が「彼が理解させたかったこと」と同じかどうか、自信がないからだ。
今日の福音は、マタイ15:21~28。重い病を持った娘を持つカナン人の女性がイエス様を呼びとめて娘の病気を治してくれるように頼んだ。其の時イエス様は、自分は「イスラエルの迷った羊のためにだけ遣わされたんだ」と言って、断わった。つまり、自分の使命はイスラエルの救いであって、それ以外の人々を助ける理由はない、という、冷淡な言葉で断ったのだ。女性はそれでも追いすがって、身を低くして頼み続けているのに、さらにイエス様は、「子供たちのパンをとって子犬にやってはいけない」と言う言葉を投げかけた。「犬」とは、当時のイスラエルの社会では最低の差別用語であって、この言い伝えが正しければ、イエス様は、かなり激しい人種差別をしたことになる。
ところが犬と言われた婦人の方は、イエス様の子犬呼ばわりを逆手にとって、「犬だって、主人の食卓から落ちるパンくずぐらいは食べさせてもらえるのです」と追いすがった。差別用語を投げられながら、イエス様を「主よ」と呼びかけながらイエス様の力を信じている女性のこの言葉に、イエス様は感心し、「そこまで信じるのなら、あなたの願いは実現するだろう、と言って、婦人の娘の病は癒された、というのが、其の福音書の件の内容である。
当然のことながら、これは福音書通りでなく、私が自分の言葉と解釈を交えて書いたものだから、抗議する人もいるかもしれない。
しかし私にはこの個所に関してはずっと疑問があって、むしろ触れたくない記述なのだ。家族ぐるみカトリック信者の家庭に生まれ育って、初めからイエス様を「人類の救いのために遣わされた」神の子として教えられている私にだって、この個所は、そのままでは理解不能だから。
福音書の記述に従えば、イエス様が自分を頼ってくる相手を断ったのは、この場合、どう考えたって、相手がカナン人の女性であって、イスラエル人ではないという一点にすぎない。しかも、いつも弱者の側に立って、社会的に弱い立場の女性や病者や職業差別を受けて社会から差別されているような立場の人々を、救いの対象として教えを説いてきたイエス様の言葉として、カナン人だからと言って犬畜生扱いは異常じゃないか、と、思っていた。
ところで、今日の説教では、日本語の危なっかしさも手伝って、理解できない部分が多々あったのだけど、話の焦点をカナン人の女性の言葉に充てていた。救いが一部の民族のためでなく、全人類にあることを、イエス様の救いの使命は全人類に向けられていなければならないことを、イエス様に気付かせるきっかけを作ったのが、カナン人の女性の信仰であった、と言う意味のことを神父さんが言うのである。
彼は、たぶん東南アジアの人である。解説の出だしにいきなりガンジーの話を始めた。ガンジーが彼の住む地域にたてられた教会に興味を持って足を踏み入れようとしたときに、守衛が彼を止めて言ったそうだ。お前はここに入ってはいけない、自分の宗教の集まりに行け。
で、それ以後、ガンジーは二度と、教会に来なかったそうだ。ガンジーと言う人が、キリスト教にかなり興味を持っていたことを私は知っている。これもカトリックの刊行物に書かれていたことだけれど、ガンジーの言葉として、「自分はキリスト教徒は大嫌いだ、彼らはキリストに何処も似ていない」と言うのを覚えている。インドの近代史を研究して見れば、その言葉の重さと意味は、よくわかることである。本当にキリストに似ている、つまり、キリストの教えに従って生きているキリスト教徒は1世紀に1人くらいしか出ないからね。
福音書の中に出てくる異教徒に対するわずかな記述が、サマリア人のたとえと、このカナン人の信仰の話だ。まあ、サマリア人の方は、同じ聖書民族だから、まったくの異教徒とは言えないが、カナンと言えばユダヤ人が侵攻してその国を乗っ取った相手、敵国である。だったらその時代のイスラエル人にとって、カナンは犬畜生そのものだっただろう。それは漢民族にとっての匈奴、大和民族にとっての蝦夷みたいなもので、まともに人間扱いされなかった「異邦人」だったはずだ。
子犬扱いされて断られた救いの業を、なおもしつこく希うためには、相手に対する絶対的信頼が必要だろう。カナン人の女性は、その信仰表現として、一旦自分を子犬と認めてから、逆手にとって、子犬だって、パンくずくらいはもらえるはずだ、と「突っ込み」を入れたのだ。その信頼むき出しの突っ込みによって、イエス様の心がほだされた物語だとしたら、これはちょっと面白いし、言われてみれば、その通りでしかありえない。彼は「突っ込み」を受け入れ、娘の病気をいやした。
とすれば、イエス様は、自分の使命がイスラエルの1民族の救いにあるだけでなく、全人類に向いていることを、異邦人によって知らされたことになる。
今日の松戸教会の説教は、「多分」面白かった。「多分」と書くのは、実は、例の日本語が怪しい外国人の神父さんの説教で、「私が理解したこと」が「彼が理解させたかったこと」と同じかどうか、自信がないからだ。
今日の福音は、マタイ15:21~28。重い病を持った娘を持つカナン人の女性がイエス様を呼びとめて娘の病気を治してくれるように頼んだ。其の時イエス様は、自分は「イスラエルの迷った羊のためにだけ遣わされたんだ」と言って、断わった。つまり、自分の使命はイスラエルの救いであって、それ以外の人々を助ける理由はない、という、冷淡な言葉で断ったのだ。女性はそれでも追いすがって、身を低くして頼み続けているのに、さらにイエス様は、「子供たちのパンをとって子犬にやってはいけない」と言う言葉を投げかけた。「犬」とは、当時のイスラエルの社会では最低の差別用語であって、この言い伝えが正しければ、イエス様は、かなり激しい人種差別をしたことになる。
ところが犬と言われた婦人の方は、イエス様の子犬呼ばわりを逆手にとって、「犬だって、主人の食卓から落ちるパンくずぐらいは食べさせてもらえるのです」と追いすがった。差別用語を投げられながら、イエス様を「主よ」と呼びかけながらイエス様の力を信じている女性のこの言葉に、イエス様は感心し、「そこまで信じるのなら、あなたの願いは実現するだろう、と言って、婦人の娘の病は癒された、というのが、其の福音書の件の内容である。
当然のことながら、これは福音書通りでなく、私が自分の言葉と解釈を交えて書いたものだから、抗議する人もいるかもしれない。
しかし私にはこの個所に関してはずっと疑問があって、むしろ触れたくない記述なのだ。家族ぐるみカトリック信者の家庭に生まれ育って、初めからイエス様を「人類の救いのために遣わされた」神の子として教えられている私にだって、この個所は、そのままでは理解不能だから。
福音書の記述に従えば、イエス様が自分を頼ってくる相手を断ったのは、この場合、どう考えたって、相手がカナン人の女性であって、イスラエル人ではないという一点にすぎない。しかも、いつも弱者の側に立って、社会的に弱い立場の女性や病者や職業差別を受けて社会から差別されているような立場の人々を、救いの対象として教えを説いてきたイエス様の言葉として、カナン人だからと言って犬畜生扱いは異常じゃないか、と、思っていた。
ところで、今日の説教では、日本語の危なっかしさも手伝って、理解できない部分が多々あったのだけど、話の焦点をカナン人の女性の言葉に充てていた。救いが一部の民族のためでなく、全人類にあることを、イエス様の救いの使命は全人類に向けられていなければならないことを、イエス様に気付かせるきっかけを作ったのが、カナン人の女性の信仰であった、と言う意味のことを神父さんが言うのである。
彼は、たぶん東南アジアの人である。解説の出だしにいきなりガンジーの話を始めた。ガンジーが彼の住む地域にたてられた教会に興味を持って足を踏み入れようとしたときに、守衛が彼を止めて言ったそうだ。お前はここに入ってはいけない、自分の宗教の集まりに行け。
で、それ以後、ガンジーは二度と、教会に来なかったそうだ。ガンジーと言う人が、キリスト教にかなり興味を持っていたことを私は知っている。これもカトリックの刊行物に書かれていたことだけれど、ガンジーの言葉として、「自分はキリスト教徒は大嫌いだ、彼らはキリストに何処も似ていない」と言うのを覚えている。インドの近代史を研究して見れば、その言葉の重さと意味は、よくわかることである。本当にキリストに似ている、つまり、キリストの教えに従って生きているキリスト教徒は1世紀に1人くらいしか出ないからね。
福音書の中に出てくる異教徒に対するわずかな記述が、サマリア人のたとえと、このカナン人の信仰の話だ。まあ、サマリア人の方は、同じ聖書民族だから、まったくの異教徒とは言えないが、カナンと言えばユダヤ人が侵攻してその国を乗っ取った相手、敵国である。だったらその時代のイスラエル人にとって、カナンは犬畜生そのものだっただろう。それは漢民族にとっての匈奴、大和民族にとっての蝦夷みたいなもので、まともに人間扱いされなかった「異邦人」だったはずだ。
子犬扱いされて断られた救いの業を、なおもしつこく希うためには、相手に対する絶対的信頼が必要だろう。カナン人の女性は、その信仰表現として、一旦自分を子犬と認めてから、逆手にとって、子犬だって、パンくずくらいはもらえるはずだ、と「突っ込み」を入れたのだ。その信頼むき出しの突っ込みによって、イエス様の心がほだされた物語だとしたら、これはちょっと面白いし、言われてみれば、その通りでしかありえない。彼は「突っ込み」を受け入れ、娘の病気をいやした。
とすれば、イエス様は、自分の使命がイスラエルの1民族の救いにあるだけでなく、全人類に向いていることを、異邦人によって知らされたことになる。