Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

聖書講座2

聖書講座2
 
「無条件の愛、条件付きの愛:敵を愛す:旧約と新約」
 
昨日の聖書講座の中で、私の頭で理解できたことのみ記述する。パウロが出てくると理解不能になるので、パウロを避ける。
 
「愛に関する新旧両聖書の違い」
 
旧約の愛:「あなたを憎むものが『飢えているならば』パンを与えよ」と箴言25-21ではいう。そこには、「飢えているならば」という条件が付いている。そして、その結果、相手が折れることを期待しているような文句が続く。ある種の優越感を認める言葉ともとれる。
 
この程度なら、普通の人間が普通の状態で努力すればできる限界内の生き方の勧めといえる。つまり、人間関係をある程度正常に保つための教えである。敵を敵のままに放置するのでなく、条件付きで敵との和解を考える。
 
旧約の「愛」はそこまでで、そこまでなら、律法にしたがい、真面目に生きれば、「天の国」に行ける条件を満たされる。
 
しかし、新約の「愛」は、そこまでにとどまらない、徹底した愛敵の精神である。
 
「あなた方を憎むものに親切にしなさい。悪口を言うものに祝福を祈り、侮辱する者のために祈りなさい。あなたの右頬を打つ者には左も出し、上着を奪い取るものには、下着も与えなさい。あなたの持ち物を奪うものから取り返そうとしてはならない。」とまで言うのがイエスである。
 
この精神は、すでに常識を超えている。はっきりいって、できるわけない。
 
この精神をパウロがどのように説明しているかが、昨日の講座の主題であった。
 
凄く難しかったのだけど、何とか、わかる範囲を書くことにする。
 
パウロはローマ人への手紙7章で、5体の中にある罪の法則の虜になっている自分をみじめだという。彼は自分を「肉の人」という。「肉」が「肉欲」を意味する日本語と違って、パウロのいう「肉の人」とは、悪い意味ではなく、「骨のように残ることなく、はかなく消えさるもの」、私が拡大解釈すると、「肉の人」が「はかなく消えさる人」ならば、「限界を持った、無明を克服できない普通の人」だろう。
 
ところで、パウロは、フィリピの信徒への手紙3章で、自分を「肉に頼る人間」として、どういう人物かを述べている。それは、「割礼を受けたイスラエル人で、ベンヤミン属に属し、律法に関してはファリサイ派、教会の迫害者、律法の義に関しては非の打ちどころのないものでした」と述べている。
 
つまり、パウロのいう「肉の人」とは「律法に関して非の打ちどころのないもの」であって、それがイエスに出会って回心する前の自分のことであるらしい。
 
そこで、私は疑問を持ち、質問した。
 
パウロが回心の前「律法に関して非の打ちどころがない」状態を「肉の人」と呼ぶなら、イエスに出会って、回心をした後、「律法を超えたのか、または律法を否定したのか」、そして「律法を超える状態が「イエスの救い」につながるのか、という点。
 
正確な答えが得られたわけではない。または、答えを理解したわけではない。だから、あくまで私の解釈によれば、イエスとのかかわりがない状態で、「完全な律法の遵守のみを善」と考えることにより、「善」の範囲が人間の都合によって狭められる、ということ。だから、「自分はその善の範囲を持って、完璧な人間」と定義付け、「その範疇に入らない人間を、切り捨てる」という結果を招く、ということのように感じた。
 
だから、ルカ18章にあるように、会堂の真ん中に立って自分を義とするものの言う、「自分は他の人たちのように」「奪い取るもの、不正なもの、姦通を犯すものでなく」「またこの徴税人のようなものでないことを感謝します。」というセリフが出てくるのだろう。
 
エスはそこで、自分を義とするものを選ばず、会堂の隅で、「自分は罪人だ。だから救ってください」と祈るものを、選んだ。
 
つまり、結論が一応赦されるなら、限界のある人間は、どんなに「決められた律法を守り、それに従って生き、自分こそ完全だと考えても、律法を自己実現して満足している限り、肉の人であることに変わりない」「自分の限界を知り、イエスを通して頼るものが、はじめて肉の人ではなく霊の人となり、救いの業にあずかれる」ということか。
 
つまり、救いの第一歩が、自分の限界を知ること。
 
それ以後のことが、たぶん、まだ、自分にわかってないな…
だから、今日はここまで。