Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

信念を公表するのが「大人げない」のかね

人は物事を語る時、酔っていようと冗談であろうと、「うっかり」出た発言の中に、本心が現れるものである。
その本心というものは、日ごろ「正常な」時の発言が立派であればある程、皮相で醜く感じるものだ。
 
ある知り合いの男が、「男が仕事に成功すれば金も女も付いてくるものだ」と発言した。その言葉が自分を育て支えた母親や、落ちぶれてもなお、ほとんど献身的な愛情を注いでくる妹やその他の係累の女性たちを、冒涜している発言であることも気付かずに。
 
彼の深層心理の中で、女とは、男の人間性を見つめることのない生き物で、いつも社会的に成功するかしないかで、男を判断するものだという、根強い意識があるのだ。しかもその女は金と同格なのだ。
 
その発言をとがめた私に反応した周りの女性は、私を「大人げない」という。自分の女性としての母性をこれほど公に侮辱されたのも気づかずに、とがめる私を「大人げない」という。彼女にとって、「大人」とは、陰でこそこそ物を言い、決して公の場で自分の信念を公表することを知らない、「成功した男」にだけついていくタイプの女なのだろう。
 
私の母は、家屋もとられ、肺結核に侵され、無一文で破れ畳の上に敷いたせんべい布団の上で枯れ木のように果てて行くとき、「大蔵さんを許してやってくれ」と言ってこと切れた父を、何が起きても支えた。その後40年、彼女は亡夫を崇め尊崇し続けて、父の理想の結果、赤貧の中で苦しんだ息子たちに一言の批判も赦さなかった。金と男の成功を憧れた母など、見たことがない。(大蔵さんとは、実家の家財産を詐取した父の友人)
 
私の経てきた人生70年、私が死ぬ思いをしながら苦しんでいたときに、最後まで見捨てなかった友人たちがいた。私が尾羽うちからして、難民として日本に戻ってきた時に、こちらから何も言わないのに、駆け付けて、家財道具の一切をそろえてくれた友人たちがいた。その友人たちの中に、ただの一人も「男」などいなかった。女とカネを同格にみて、下衆な腐った男が成功することを条件についていく女など、私が友人と呼ぶ女性たちの中には一人もいない。
 
自分の発言の重さを何もわきまえず、ひたすら自分が正しいと言い続ける男や、その発言におもねる女など、糞みたいなものだ。私は母性を軽んじる人間などに、女であろうと男であろうと、興味はない。信念を公表することが大人げないのなら、ひとりで、大人になっていろ。くだらない。