Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「古事記」における国名ヤマトの漢字表記について;6

(長いこと中断したけれど、やっぱり続けることにした)

 

★ヤマトネコという言葉が「美称」つまり本名ではない、と言われる理由について」

 

 次に、私が傍線(ヘ)に示した、「ヤマトネコ」なる言葉が「美称」であるとする井上氏の考えについて、自分の考えを述べようと思う。

 

 井上氏の言う「美称」の定義が必ずしも明確ではないが、もし、その「美称」というのがあまり意味を伴わない習慣的につける接頭語、または装飾のような名前と解するならば、私は「ヤマトネコ」を美称と考えることには大いに異議を唱えたいところである。

 

 国の名称が「ヤマト」であり、そして人の代の第一代の名前が「カムヤマトイワレビコ(神日本磐余彦)」であり、それに続く数代の皇位継承者に「ヤマトネコ」の名称がつけられ、同時に一族の女性の中に「ヤマト」の名がついた女性がいて、その多くが神に仕える巫女のような役職を持っていることから見ても、私には「ヤマトネコ」はよほど重要な意味を持つ名前であって、ただの接頭語、または修飾語とは思われない。

 

 恐らくこの名称は男性につけばヤマト一族の皇位継承者をあらわし、女性につけばヤマト一族の守護神に仕える聖なる者、つまり巫女をあらわした名称であろう。

 

 ここでもやはり障害になるのが、「美称」扱いにしないと意味をなさないような7世紀の諡号用語と当時の日常語とのずれである。記紀の記述が歴史の改竄とはいえ、少なくとも神代から神武を経てヤマトネコの名を持つ天皇やその傍系の人々の名前は、記紀の記述の用語からは浮いてはいない。上代の天皇の名前を実在もしないのに創作したというなら、言語そのものも創作しなければならないことになる。

 

 一方、後世の諡号は諡号のためのみの名前であって実名からさえ浮いている。「ヤマトネコトヨオホジ(倭根子豊祖父:文武)」とか「ヤマトネコアマツミシロトヨクニナリヒメ(日本根子天津御代別豊成姫:元明)」とかいう名称は、当時の日常語から生まれた名称ではなく、古事記の上代の用語から、意識して採用された名称であることは間違いないと見てよい。

 

 前者の実名は軽の皇子、後者の実名は阿閇の皇女である。この実名と諡号の間の開きはドキュメントに挙げた系図1と天武朝の系図9とを見比べていただけば理解できると思う。系図1における人名には、皇位継承者と傍系の人名の間に開きがないが、系図9においては、皇位継承者のみに傍系の一族名とはかけ離れた諡号がついているのがわかるだろう。

 

 だから、たとえ7,8世紀の天皇の諡号に見られる「ヤマトネコ」なる名称が意味のない「美称」であるといえても、上代の「ヤマトネコ」は皇位継承者を表す重要な名称、世襲して襲名すべき王者の印であったと私は見るのである。

 

 特にここで「美称」にこだわることはないかもしれないが、これは上代の八帝と7,8世紀の天皇の諡号との比較から、上代の八帝の存在を否定するということの論理が、言語の変遷の歴史から見て成立しないということを主張するにとどめておきたい。

 

 つまり、比較する上代の八帝の名は家族の伝統に基づいて命名された実名であり、7,8世紀の天皇の問題の名は諡号であって実名ではない。ゆえにこの二つはそもそも比較の対象にならないのである。特に後者は家族の伝統からも一族の名前からも浮いており、しかもそれが上代のものと似ているならば、新しいほうが古いほうを参考にしたと見るのが当然である。上代の実名が後世的なのではなく、7,8世紀の諡号が上代的なのである。故に7,8世紀の天皇の諡号は、上代の神話伝承の登場人物の名前にあやかって命名されたものであると断定してよいと、私は考える。

 

 次に、井上氏が上代八帝の存在を否定するもう一つの理由、傍線(リ)に示した二つの時代の皇位継承法の違いについては私は次のように考える。

 

①相続の仕方は同時代であっても必ずしも各部族で同じではないし、問題の上代八帝の時代の中心的な部族と応神以後の中心の部族が、同じ部族であったという確証はまだない。

②相続の仕方は、同部族内でも歴史的状況の変化に伴って例外もありうる。

③相続の仕方の順序は、歴史的に見て、まず兄弟相続があって、次に父子相続がくるのだと決めるには根拠も資料が乏しすぎる。

④父子相続という方法は、むしろ相続の仕方の自然法であって、応神以後に兄弟相続の事実が多いからといって、それが「法」として定まっていたと考えるのは、兄弟相続になった事情を掘り下げてみれば、事実とは言い切れない。父が子に相続をさせたいと思うのはこれは親のほうからしてみれば当然のことで、兄弟相続となっている多くの場合を調べてみれば、相続者となった若い世代を、父親の世代の叔父達がライバルとして殺害することによって、皇位を奪い取っているのだし、そのような事実を抜きにして、兄弟相続が「法」として決まっていたと考えるのは、正当な考えとは思えない。 

⑤日本の国の形成期に日本が中国の文化に依存していたからといって、父子相続の習慣を儒教の思想の伝来を待ってから成立させたと考えるのは理解しがたい。世界中のどの民族の相続法も、基本は父子相続である。相続が父子相続でなければ、世代が交代しない。世界中の民族が儒教の思想の伝来を待って、父子相続を法としたとは考えにくい。父子相続はむしろ「法」よりも前に、世代の交代を意味する自然の掟である。だから上代が父子相続であることはむしろ自然であって傍線(ヌ)にある井上氏の主張のように、父子相続が歴史の逆行であるとは必ずしもいえない。

 

 説明を加える。私は「天」の考察から「命」を経て、「ヤマト」の国号の変遷について研究をしているうちに得た結論から、記紀筆録時代と筆録の対象となった上代の言語が違う、言語が違えばその言語を担う部族あるいは民族が違う、と見ているので、相続の習慣の違いなどは、在って当然だと思っている。つまり相続の仕方が違うから、上代の八帝はいなかったと考えるのは、整合性がないと思うのである。

 

 特に、私の説ではなくて、崇神、或いは応神朝が、異民族による王朝ではないかという説、かの「騎馬民族征服王朝説」が存在し、その説が完全に覆されたわけではないし、応神朝以後に少なくともある種の「変動」ぐらいの程度でもいいが、変動があったと理解するなら、相続の習慣の違いによって、直ちに上代のほうは創作に過ぎないとするのは、早計であると考える。

 

 しかも、上代がどのような時代であったかはわからないとしても、日本の国家の建国期であったことは確かであって、活躍した人物が何もいなかったとか、その歴史が7,8世紀につながっていないとか考えるのは、不条理ではないか。上代は魏誌の記述が正しければ、群雄割拠の騒乱の時代で卑弥呼(多分)を中心とした伝承のその中の1部族の伝承かもしれない天孫族の相続法と、応神朝以後のようにある程度権力の集中が明確になり始め、その中で同族内の勢力争いに身をやつしていた時代の相続法を比較の対象にするのは無理であると思う。たとえ異民族の侵入なんかまったくなかったとしても状況の違う時代を比べて、どっちが存在しないと決定するのは不条理である。

相続法の歴史的変遷については、私は次のように考える。

 

 仮に応神朝以後の父子相続を考えてみると、勢力争いの結果天皇の死後その力の強い野心を持った兄弟が天皇の長子に相続をさせないように殺しただけで、兄弟相続の「法」があったとは決していえないと思う。奈良朝平安朝以後長子相続ができたのは、中国の思想のせいではなくて、政治の実験が藤原氏に移り、摂関政治が始まってからは、相続した長子が力の弱いほとんど幼子であっても、それを守るのは、実験を持った外祖父の摂政関白だったからである。

 

 あくまでも相続は本来世代の交代と密接な関係があり、父子相続は自然法であって、法律ではない。系図の中に私は赤い矢印で誰が誰を殺害したかの記録を書き込んでおいたが、兄弟相続の多くは、皇太子として立てた天皇の子に言いがかりをつけては殺害し、皇位を奪い取ったのであって、「法」によって、平和裏に「兄弟相続」をした例なんか皆無に等しいのだ。  

 

 早いところでは、第二代神渟名川耳尊は異母兄手研耳の命を殺し、第十代御間城入彦五十瓊殖尊は伯父にあたる武埴安彦の命を殺し、自分の子品田別皇子(応神)を皇太子にしたかった気長足姫尊(神功皇后)は、正当な相続人と思われる仲哀の二人の皇子を殺し、第十六代大鷦鷯皇子は皇太子であった莵道の稚郎子を自害せしめ、異母兄を二人殺し、十七代、十八代は協力して住吉の仲皇子を殺し、その協力関係によって、二人とも皇位につくが、相続に人であったらしい十七代の二人の皇子は、二人とも雄略に殺されているという具合である。その雄略がライバルを殺してやっと皇位につくためにも、ほかの多くの皇子を殺害し、そのためにこの皇統は断絶するのである。

 

 この歴史から押して考えれば、たとえ記紀の記述があえてことさら自分たちに都合悪いように改竄されていたとしても、兄弟相続が平和裏に法によってなされていたということはありえない事だ。だから私は兄弟相続は「原則」ではなくて、むしろ、応神以後の状況のほうが「変則的」だったのだと考える。

 

 そして、もし、父子相続が自然法による相続の仕方の原型といえるなら、上代であればあるほど父子相続は守られていたと考えられる。上代はシャーマニズムの時代である。シャーマニズムの時代にはむしろ「変則」は許されないだろう。

 

 同時にいえることは、上代は国家の建設期であり、動乱は他部族間との闘争であったのに反して、応神以後は、とにもかくにも大和朝廷が他の部族にぬきんでて王朝を築いた時代で闘争はもっぱら内部の権力闘争である。上代は父が子に相続を任せるときは子は十分成長しており、他部族間との争いを通して父に協力し、実戦を積んで鍛えられていたから、父子相続も可能だっただろう。部族間の闘争が一応の決着を見て大和朝廷が一人天下になった時代になれば、子供は若く実戦の経験もなく、相続権は力の強い叔父たちに奪われることが多かった。

 

 もうひとつの説、中国の儒教思想の影響で、相続法が定まったというが、それは私には疑問である。「法」というものは常に事実が先行して出来上がるものである。「法」が先にやってきて、民族の生活習慣にかかわりなく成立するものではない。

 

 「法」というものは特に古代においてひとつの民族のもっとも望ましい習慣または共同体の中の不文律が、何かによって破壊されることが重なったときに、時の権力者によって定められるものであって、共同体の中の暗黙の了解を無視して、外部からもたらされるものではないだろう。たとえ優れた「法」でもそのときその共同体がそれを受け入れる受け皿がないときに、中国文化がいくら進んでいても、定着したりはしないだろう。

 

 戦後GHQが押し付けたといわれる日本国憲法も、戦争にうんざりした国民の側に受け皿があったから受け入れたのであって、ほとぼりが冷めれば、また見直しをしたいという考えも頭をもたげてきているではないか。

 

 つまり、7,8世紀に中国の儒教思想を土台とした相続法が伝わってきたときに、それを採用したとすれば、採用する必然性がそのときあったからであって、単なる模倣とはいえないだろう。皇太子が幼児であっても、それを即位させなければならない必然性が皇太子を守る側の本当の実力者にあったから、入ってきた儒教精神を「利用」して、「法」にしたのだろう。それは「法」によって他の勢力を押さえる効果があっただけで、理想主義のなせる技ではない。

 

 既述のように、応神から続いた王朝は、激しい内部闘争の末清寧で断絶してしまい、何とか中央の難を逃れて地方に隠れていた市の辺の押磐の皇子(履中の皇子)の遺児を探し出してつないだ王朝も、武烈で完全に途絶えてしまうのである。そして、継体に創始された天智、天武朝も、内部闘争の末に生まれたもので、断絶を防ぐためには相続法の確立が必要だったときに、中国の相続法が入ってきた、つまり意識して採用したのである。

 

図式化すると、この相続法の歴史は次のようになる。

1)父子相続の原始的習慣
2)力の強い父の兄弟と、力の弱い相続者の争い
3)競争者殺害による兄弟相続
4)家の断絶
5)傍系相続
6)力を持った外祖父に守られることによる父子相続
7)力の強い父の兄弟と弱い子を守る外祖父との争い
8)父子相続の正当制の思想
9)父子相続の法律化

 

 つまり、上代の父子相続は、法以前の原始的習慣である。応神朝以後の兄弟相続は、原始的習慣の破壊された状態である。7,8世紀以後の中国の相続法の影響下にあった父子相続は家の断絶を防ぐために受け入れられた処置であって、中国の相続法を待たなくても遅かれ早かれ法律化されたはずの状況がそこにある。

 

 ゆえに、原始習慣の破壊された状態が続いたとしても、その破壊状態の中での兄弟相続を「法」と考えることはできない。 

 

 ゆえに、原始習慣が守られていた時代と、破壊状態とを比べて、同じではないから一方は存在しなかったという論理は成立しない。

 

 同時に破壊からくる家の断絶の弊害をなくすために、父子相続を法律化したからといって、前後が同じだから歴史の逆行だという論理も成立しない。

 

ゆえにこの論法では、上代の八帝の存在を否定することはできない。

  ☆「邪馬台国」は「大和」の精神的故郷の可能性。

「大和」は「邪馬台国」憧憬の虚像の上に成り立った国家である。」

 

★「稗田阿礼について」

 

 神話を神話たらしめている言葉「天」を地上に戻し、「命」や「尊」を「ヒト」に戻し、「尊」の中から「神」と「ヒト」をより分け、漢字の意味範囲に惑わされずに記紀を読んでいくと、「神話」の中の「史実」が顔を出し始める。

 

 そして、どうして「史実」が「神話」になり得たかという疑問を追及していくうちに、記紀編纂時代と筆録対象の上代とでは言語習慣が異なっているという事実が、①言語の意味のずれから、②命名法の違いから、③国号の変遷の歴史から、明らかになってきた。 

 

 古事記の序文を素人として素直に読めば、古事記の原本だった「先代の旧辞」は、わざわざ稗田阿礼なる者に勅して、「誦習」させねばならぬほど、すでに「古語」であったと考えられる。そしてこの「誦習」を筆録したものが太安万侶であるから、原本と筆録との間には「誦習」というワンステップが入っており、さらにその「誦習」を筆録するときは、音訓操作によって、本来の言葉が改められたという経過をたどっているということになる。

 

 さて、私がここに、いちいち括弧付にした「誦習」ということばだが、これは「暗誦」と同じということになっている。学校教育でもそう教えるし、古事記の校註にも解説にもそう書いてあり、「誦習」が「暗唱」であることは動かぬ真理であるらしい。 

 

 しかし今ここで、「誦習」を「暗唱」ととると、どうしても意味に矛盾をきたすのである。「先代の旧辞」は書いてあったものである。太安万侶なる学者は、その書いてあったものを直接研究して、表記改革を行うなり操作したり、改竄したり、自由に料理ができたはずである。それをわざわざ稗田阿礼なる人物の「誦習」すなわち「暗唱」を待って、筆録する必要がどこにあったのか。

 

 このワンステップに意味が見られないところから、稗田阿礼はその存在を疑われてさえいる。つまり、「誦習」を「暗唱」とみるなら、素人の目には稗田阿礼は無意味な存在に見えるのだ。そしてこの「誦習」に何らかの意味があるならば、「誦習」を「暗唱」と解釈すべきではないと思う。学者はどうしてそのことに気づかないのだろうと、私はこの「誦習」の意味を記した校註を読むたびに思うのだ。

 

 今、古語を解釈し、筆録にあたったものが太安万侶であり、その解釈表記に古語の意味とのずれが散見し、そしてこの古語と太安万侶その人の言語が異なっているということが明らかになったとき、稗田阿礼なるものがどのような役割をしたかを考えてみることは意味あることである。

 

 稗田阿礼は頭脳明晰で物覚えがよかったと伝えられているが、このもの覚えがよかったということの内容は何を意味したかを考えてみたい。それは、現代日本の学校が求めている、今からはじめて耳にするものを「暗記」するための物覚えのよさか。私にはそうとは思えない。そうであれば、書いてあるものを読んで暗記してから、太安万侶に筆記させる必要などどこにもない。「先代旧辞」と太安万侶の間にどうしても稗田阿礼の「誦習」が必要なわけが、ただの暗記力ではどうしても解明できないのだ。

 

「誦習」の誦は、読むこと、唱えること、節をつけて詠むこと、歌うこと、そらんじることである。さらに、大字典(講談社)によると声に節をつけて読むこと、ゆえに言扁、甬は音符という説明がある。察するに、これは朗詠のように、長い長い物語を歌い継いできたものを、太安万侶なる「学者」が「文献」として採用したのではないかということだ。

 

 稗田阿礼の「頭のよさ」は多分、すでに一般に忘れられていたことをよく記憶していた、多分その家系にだけ口頭によって伝えられて、口頭伝授していく役割を持つ、「神官」のような人物ではなかったろうか。つまり、古代の言語を解する唯一の生き残り、現在は無位無官でも昔栄えて滅ぼされた王朝の後裔、滅んだ英雄たちのことを語り継ぎ、歌い継いできたホメーロスの役割を務めたのが、この、出身も身分も生死の年月日も、何もかも不明の稗田阿礼ではなかったか。もしそうであれば、この人物が出身も身分も生死の年月日も伏せられていることにさえ、時の政府の作為が感じられる。

 

 もしそういうことなら、太安万侶自身は、「先代旧辞」を読めない人物ということなるし、「先代旧辞」の言語が稗田阿礼にしか理解できないということになる。だから太安万侶という「漢文」をのみ書ける学者が漢文表記に書き直すために、稗田阿礼はどうしても必要な人物だったというわけだ。稗田阿礼の役割は、「先代旧辞」を読んで「翻訳」したり、註解を加えたりすることではなかったか。ということは、稗田阿礼の存在なくしては、記紀は存在し得なかったことになる。

 

 なんだか現代の学者はわけがわからなくなると、必ず、「存在しなかった」ことにして済ましているが、重要な役割をしたために古事記序文に特記された人物が「存在しなかった」と簡単に切り捨てられてしまうのは甚だ遺憾である。