Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「天の国」とは何か


「天の国」とはどういうものかの説明に、イエス様は、三つのたとえを出している。その一つは、「畑の中に隠された宝」に似ているそうであり、二番目は「良い真珠を探す商人」に似ているともいわれ、三番目は「海に投げ入れられあらゆる魚を寄せ集める網」に似ているそうだ。

これはきわめてへんてこな例えである。たとえに出されたのは「隠された宝」という貴重な「物体」。次のたとえは真珠ではなくて、真珠を探す「商人」だ。三番目は「網」である。イエス様によれば、天の国とは「場所」ではなく、まして「どうすればその天の国に行けるか」と言うこともまるで問題にしていない。

彼のたとえによれば、天の国は、宝物のようで、宝を探す人のようで、宝をより分ける道具のようである。

はっきりいって、イエス様は、なにを言いたいのか、尋常な頭ではわからない。隠れた宝が「天の国」に似ている、そしてその宝を手にするためには、全財産をはたいても十分な価値があるらしい。

次は「商人」だから、物でも場所でもない。その「商人」は、あらゆる手段を用いて、本物の真珠を探すらしい。「天の国」の方から「探す」のだから、物でも場所でもなくある意思を持った、たぶん、救いの意思を持った何ものかのように見える。こりゃ、なんだ。

今度は、「網」が天の国に似ているのだ。その「網」は魚を寄せ集め、その中から良いものだけをえり分ける漁師の道具だ。

天の国は、「網」に似ているんじゃなくて、「漁師」に似ているんじゃないかな、とイエス様のたとえに抗議したくなるようなたとえだ。

昔子供の時からそらんじていた、あの主祷文の文言「み国の来たらんことを」を引き合いに出すと、つまりあの祈りは、「貴重な宝」が心に来るように、「貴重なものとは何かを理解し、探し求める人」が心に来るように、「善悪をより分けることのできる道具」が心に来るようにと、祈っていることになる。

それらに共通のなぞは、どうも「隠れている」、つまり「おいそれとは見つからない」と言うことのようだ。あるけれど、見えない、目がただの節穴だと見えない、だから見る目を養え、本物を見分ける目を持てば、天の国は来るのだ、知らないだけで、すでにお前の中にあるのかもしれない、と言われているようにも聞こえる。

実は今日のミサも、あの言葉の通じない神父さんだった。福音の個所は、あらかじめ印刷物を読んで覚えていたから、不自由はしなかった。でも、言葉がわからなくて暇だったから、ずうっとこんなことを考えていた。割り切れた答えがあるわけではない。でも、私には世間で天国とか極楽とかどうでもいい言葉で呼ばれている「状態」が、初めから「場所」を意味しないということが分かったような気がして、それだけが収穫だった。