Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」9月9日

「夏休み」

アメリカ旅行 」

 

アメリカ旅行などと言う題材で物を書いても、今はもう、新しく人に興味をそそらせる言葉を製造する事は難しい。それほどアメリカをうろつく日本人は増えていた。昭和46年8月、私は母のいるアメリカの姉のうちに行こうと、まだ成田の国際空港のできる前、羽田の国際空港ロビーのベンチに座っていた。

 

よい事や悪い事や、何でもない事や、いろんな結果を生みながら、とにかく日本人はいろいろな分野でアメリカ人と付き合っている。すでに事実の重みがありすぎて、それを良いの悪いのと批評する時代は過ぎている。

 

私は今回のアメリカ旅行に、いくつかの事を期待していた。かつて私が修道院に入る日、行かないでと言って私の胸に飛びついてきた、今は5歳になる姪に会うこと。

 

27年前に出会い、そして27年間家族ぐるみで文通を続けてきた、かつての占領軍の元民間兵に会う事。

 

また14歳のときから17年間にわたって文通をしているニューヨークに働くドイツ人の女性に会う事。

 

私はアメリカの土地にも、アメリカの国家にも、アメリカ人一般にも、またその歴史にも、その当事、ほとんど興味や愛情をもっていなかった。昭和16年、4月に東京で生まれ、B29の爆音を子守唄と聞いて、其の後長い年月焼け野原でハコベをむしって食べて生き残った日本人が、アメリカを愛する事ができるとしたら、其れは力や富みや強大さを崇拝する人間でなければならないと、その当時の私は思っていた。

 

羽田のロビーは閑散としていた。早く来すぎたらしい。余所行きの姿で行ったスペイン旅行と違って、そのときは私はズボンをはいていたし、見送り人は誰もいなかったから、長いすにひっくり返って、もう旅の気分でいた。見送り人との別れを惜しむために作ったものか、ただ採光のため作ったものか知らないけれど、ロビーと、もうすでに「外国」のように感ぜられる外界を隔てて、分厚いガラスが張り巡らされている。

 

そのガラスは100万人の指紋と手形で一杯で、もう少し時間がたつと別れを惜しむ日本人たちがひしめき合って、ロビーの中を覗くようになるだろう。

 

男が二人、めがねをかけたのが、別れのガラスを覗きに来た。私は、がば!とはねおき、座りなおす。覗かれる方から覗く方を眺めると、おまけにこちらに見送り人がいないとなると、なんとも言えずコッケイである。人間らしいのだか人間らしくないのだかわからない。

 

人はしばしば動物的な事を人間的と呼ぶ。ガラスの手垢だけでは別れはつらかろう。お互いに指先のぬくもりを感じ合うこともできない。2重ガラスにずれた穴が空いていて、そこから声が聞こえるようになっている。そのずれた穴からうねって自分の声が聞こえるように、人は口を曲げて話をする。いろんな人生の叫びがうねりながら、こちらに伝わる。  

 

時間が来て、私は久しぶりに楽な気持ちで、機内の人となった。一度、飛行機の中に身を委ねてしまうと、自分はもともと飛行機にいたみたいな気分になるから不思議だ。サンフランシスコへ私は飛び立った。そこにKM学園の理事長さんが紹介してくれた人が待っている。

 

私が休日を利用して母に会いにアメリカに行くと言ったら、アメリカに行くのなら、家族訪問だけじゃなくて、ついでにいろいろ観光して来なさいと言う、彼の計らいである。

 

「常識的感覚は早めに捨てろ」

 

サンフランシスコについた。8月4日だと言うのになんて寒いのだろう。4年前、スペインのマラガで、元旦に蚊に刺された事があって感動したのを思い出した。日本を出たら、俳句の季語が通じなくなるんだ。と言う事も合わせて思い出した。

 

学校の理事長さんに紹介してもらったT夫人に町を案内してもらって、昼食をしたときまた驚いた。時差でばてていたので昼食はサラダだけでいいと気軽に注文したのだが、直径50センチもある大皿に、野菜が結婚披露宴のケーキみたいにうずたかく盛り上がっていて、日本ならどう見たって10人で食べるものだ。サラダ菜は3玉は使っているだろう。きのこはどこかの森の木の下から全部ごっそりもってきたものだろう。えびは一網全部のっけたのだ。その上に何だか分からないピンクのソースが美観に頓着したとは思われないおおらかさで、ドブウンとかけてある。回りに果物が庭石のごとく敷き詰めてある。

 

これを一人ぶんと理解したとき、私は、これが前菜に過ぎないこと、この後に普通は肉だの(多分牛1頭の姿焼き)、スープだのパンだのジャガイモだのをワインと共に毎日食っている巨人族が日本に原爆を落としたんだと言う事を理解し、深く納得した。アメリカに対するぺこぺこ外交は正しいのだ。そうしないとサラダと一緒に食われちまう。

 

あの、残してもいいですか?と私はおずおず聞いた。もう見ただけで腹じゃなくて胸一杯になっていて、一杯になった胸が胃を圧迫していた。私は大和民族の代表として、義理人情の精神で何とか半分は食べなければならないと観念していた。其れを何とか食べたとき、時差と気疲れでもう立っていられなくなり、ホテルに飛び込んでひと寝入りさせてくれる様頼んだ。

 

T夫人はホテルまでついてきた。部屋までボーイが案内するのだが、彼女は前後左右を見まわして何だか警戒してる。ボーイが部屋のかぎを渡して出て行くと、彼女はさっとドアを閉めて鍵をかけ、チェーンをかけてから、風呂場、便所、カーテンの陰をあらため、何だか挙動不審なのだ。

 

なんだ、なんだと、私が聞いたら、「危ない人がどこに隠れているか分からないのだ」と、彼女は普通の顔をして言う。廊下でひととすれ違うとき、後ろからひとに声掛けられる時、ボーイを呼んだ後ノックの音を聞いたとき、一度疑ってから行動を起こせと彼女は言う。

 

じゃ、私は24歳のうら若い身で一人でスペイン旅行をしたり、こうやってアメリカに来たりするのは余ほど無謀な事をやって来たんだ。ケネデイ兄弟の暗殺やら、キング牧師の暗殺やら、真昼の撃ち合いやら、いろいろな映画みたいな事実が頭に浮かぶ。

 

私はあたりの空気が黄色に見え始めるほど疲れているのに、彼女はひっきりなしに、アメリカの恐ろしさの話しを続ける。ここでは小学校だって何かと言えば斬るの殺すのと言う騒動が日常茶飯事で、子供同士で住所を聞かれても答えないのが常識なのだとか。ぎょえ!

 

アメリカの国内事情があった。その当時、共学(男女共学でなく、民族共学)政策が取られていて、スラムの黒人街と高級住宅地の学校の生徒を強制的に交換する制度があって、両方の地域との間で反対運動が起き、いさかいが絶えないのだと言う。

 

アメリカも苦しんでいるのだな、と私は思いながら、T夫人を脇に置いたまま、平和日本の常識にしたがって、まったく相手を信用してその日は深く寝入ってしまった。

 

 ロスアンジェルスで一番印象に残った事」

 

ロスアンジェルスでも、私は理事長さんの別の知り合いに案内されて、町を見物したが、私がそこで一番ものめずらしく思った事は、その日系2世の日本語だった。

 

「活動」...映画の事です!彼女は私が分からない顔をしているのを見て、あっ!と気がついて教えてくれた。現代の言葉を知らないわけではないこと、明治生まれの1世の言葉を聞いて育ったから言語は明治時代のまま凍結している事。陸蒸気(おかじょうき)という言葉も生きている事。

 

ロスアンジェルスは車社会だから交通機関も日本ほど発達していない。日本みたいな電車が無いから、其れに相当する日本語も発達しなかった。「陸蒸気」...すごく気に入ってしまった。

 

どうも日本人が大騒ぎして出かけるデイズニーランドなどに私が興味を示さない事を見て取ったそのひとは、私を考古学博物館につれて行ってくれた。わくわくして喜んでいる私を見て彼女はニヤニヤしていた。アメリカ原住民の遺物を集めた博物館だった。これだ、これだ、アメリカで唯一の価値ある博物館は!

 

陳列されていたものの中に、ギョッとするけど珍しいものがあった。握りこぶしほどの大きさに処理されたミイラ化した人間の頭。作り物ではない。本当の頭。目鼻口髪の毛すべてが縮小されて小さく縮んで収まっている。古代の人間てどうしてこんな技術を持っていたんだろう。いくつもある。多分古代の王様が敵の頭をこうやって収集保存したんだろう。敵の頭のコレクションだ。

 

多分人間には本来こう言う本能があって、其れがネロやヒットラーのような怪物を生んできたんだろう。わが国の織田信長だって、敵のされこうべを磨いて酒を入れて飲んで楽しんだって言うから、どの民族が特に残忍と言う事ではないのだ。戦争をすれば全部こうなる。中国大陸に侵攻した日本軍のみならず、世界中に侵攻し続けているアメリカ軍も、悪逆非道を繰り返している。だいたい聖戦なんていうものはないのだ。戦争はとにかく「人殺し」。以上。問答無用。

 

むしろ古代の方が、こうやって頭のコレクションをして自分の行為を残しているだけ正直と言うもんだ。イタリアのカプチノ修道院の地下にあった、されこうべでできた芸術を思い出した。同時に、激しい憎悪の末にともすれば人間に対して殺意を抱いてきた自分の半生を思い、変に納得。

 

博物館の入り口のショップで私はインデアンが作ったと言うトルコ石のブローチを買った。其れはトルコ石の青さの中にしみのようにできている茶色っぽい部分のはげ具合から世界地図を連想できるような代物だったので、伝統的なインデアン細工ではないと言われたけれど、面白いからかったのだ。

 

そこから私はロスを後にしてグランドキャニオンを一人で見学し、姉のうちに行く前にアリゾナの砂漠のある家族を訪れる。

 

「グランドキャニオン、アリゾナ

 

グランドキャニオンは良いぞ、すごいぞとうわさに聞いて、私は何も知らず行って見ることにした。何がすごいのかこの際確かめてみる必要がある。記録を残して無いので日付やルートはどうしたのか記憶は無い。しかしうわさどおり、グランドキャニオンはすごかった。その野蛮な風景!その広大さ。不思議な地層を語る屹立した岩壁。

 

ところで私はそのすさまじい地殻変動の跡に驚愕しながら、目はしまいに自分の足元に落ち着いた。そこが太古、海であったことを語る海の生物の化石を見たのだ。アメリカ大陸のまん真ん中が海だった。海が隆起してアメリカ大陸になった。

 

これはすごい!と私は思った。そして私はその頃読んでいたアトランテイス大陸の沈没の物語を思い浮かべた。私はアトランテイス大陸の存在を信じていた。あのプラトンが学者としての責任をかけて書き残した記事だ。プラトンより頭の悪い現代人がほとんどなんの根拠も無く彼が書いたことを疑ったりするのは間違っている。

 

そしてこの大陸に存在した文明は、例外無く、アステカもマヤもインカも、文明の常識を破って空気の希薄な高地にある。なぜか。其れは彼らの古代の恐怖の記憶から強いて高地を選ばせたのだ。アトランテイスは存在し、そして地殻の変動によって海底に沈んだのだ。そのとき逆に隆起したのが、このグランドキャニオンだろう。私の考古学趣味はこの旅ではこんな形で満足した。

 

其れから、私はまた理事長さんに紹介された日系人が待つアリゾナに行った。小さな飛行機で、何だかおかしな所に着いた。全然飛行場らしくない。まるで牧場のような柵があって西部劇に出てくるようなすらっとした足の長いハンサムな男が荷物を持ってくれた。こう言う男は目を楽しませてくれるだけの価値しかないが、記念に一枚写真を取らせてもらった。いえ。決して恋はしませんでしたよ。

 

アリゾナの砂漠に住む日系人は日本語も話せた。そこで見せてもらったのは、インデアンの保護区域だった。保護ってなんだよ・・・。インディアンて絶滅危惧種の動物なの?

 

悲しい。自由に山野を闊歩していた原住民がまるで動物園の囲いの中のように、こんな砂漠の中に閉じ込められ、“保護”を受けているとは!

 

彼らの表情はまったく動かなかった。無表情。多分動物園の象は人間にわからないだけで、やっぱりこんな表情をしているのだろう。

 

その日系人の家族が面白いものを見せてくれた。砂漠で拾ったと言う原住民の骨壷。ほしかった。何か彩色が施されている。でも手にもたせてももらえなかった。ほしそうな顔が怪しまれたのかな。

 

御馳走にはびっくり。お刺身だと言って出してくれたもの。砂漠にどうして刺身があるのだろうと疑ったのだけれど、まあ良いや、味わってみようと思った。出てきたものは凍った魚の塊だった。其れを奥さんがじゃりじゃりと音を立てて切る。

 

食べるとシャリシャリ音がする。きゃあ!これって、魚のシャーベット!生まれて初めて、シャリシャリと刺身を食べた。砂漠のなかで刺身など食うものではない。とかげの丸焼きだの、サボテンのサラダの方が良い。食べ物はその土地に合ったものに限るとそのとき思った。

 

「元民間兵に合う」

 

私は敗戦を4歳で迎えた。防空壕の入り口の光景ばかり鮮明に覚えている。夕日を浴びて真っ赤な顔をして兄が歌っていた歌。

 

「俺ぇがぁ 死んだらぁ 三途の川でよぅ 鬼ぃを 集ぅめえてぇ 相撲とぉるうよぉ」。

 

空襲警報発令のサイレンの音。サーチライトの交差する夜空。空から降ってきた焼夷弾の破片をよけた一瞬の母の表情。アメリカに焼かれたくないと、険しい表情で父が自分の蔵書を自分で焼いていた。その顔。 

 

その世界があるとき突然昼になった。防空壕を家族で協力して埋めた。その後、庭は畑になった。麦踏み。収穫。本格的な農業を知っていたわけではないから脱穀機なんか無い。手を血だらけにしながらとげとげの麦をもみほぐす作業を4、5歳頃から私もやった。

 

町はアメリカ兵で満ち溢れていた。

Give me something to eat!

 

初めて覚えた英語だった。だけど私は一度も口にした事は無かった。4歳の私がアメリカ兵を見て物陰に隠れて口にしたのは、この歌だった。

 

「出て来い、ニミッツ マッカーサー、出てくりゃ、地獄へ逆落としぃ~~。」

 

大声で何度も何度も繰り返し歌った。弱冠4歳の反米運動。

 

実は其れにはわけがあった。肺結核のため兵役免除で家にいた父は、戦争の時代の画家として、戦争に貢献できない、存在価値の無い人間だった。おまけに一家はカトリックと言う敵国宗教を奉じるやからだった。食うやくわずの状態に付けこんだある画家仲間が、頼みもしないのにお金をどんどん貸してくれた。

 

彼は或るとき父をだまして家の権利証を要求し、白紙委任状に判を押させ、家財産を「買ったものとして」自分の名義で登記してしまった。

 

父は家族を守るため財産を取り戻そうと、教会から紹介された米兵の肖像画を描いて、お金を集めた。彼が借りたとされる金額を返せば取り戻せるという約束を信じた。

 

彼は高邁な芸術家だった。米兵の似顔なんかで儲ける事は元より屈辱だったが、彼は必死でお金のために絵を描いて働いた。

 

ヘンリーと言う男がいた。父が彼の肖像画を描いて支払いを請求したとき、今度払うと言って逃げた。教会を通じて探したら、彼はやってきて、夜店で買った6 羽のひよこを置いていった。其れが彼の支払いのすべてだった。あの誇り高い高邁な芸術家の父が、自分の芸術を夜店のひよこと交換された時の憤怒の形相を私は見た。

 

父よ、私は忘れない。あなたの芸術をアメリカ兵に愚弄された屈辱を。 

 

ダン ケルパーと言う青年兵がいた。カトリック信者だった。彼は私のうちの惨状を見て故国に帰ってから、教会の婦人会を動かして、物資を集め、私の家に送ってきた。其れを彼は4歳だった私が中学生になるまで続けた。彼に対する感謝の手紙は、家族全員の申し送り事項となって、中学生になって英語を習い始めた私にもその番が回ってきた。

 

彼は良く家族の写真を送ってきた。中学生の私は英語はあまり良く書けなかったから、その写真を元に、鉛筆で肖像画を描いて送った。其れを見た彼は、私に大きな絵を描いてほしいと写真を送ってきた。木炭で大きな絵を描いた。3人の子供、を一人一人。

 

その絵に対して、彼は10ドル送ってきた。1ドル360円時代の高校生にとって、3600円は貴重だった。あれ以来ずっと文通を続けてきた。その人に私は会いに行く。

 

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中学生の時に描いたケルパーさんの息子の絵

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父が描いたケルパーさん

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空港で出迎えたケルパーさん

 

私にはその人の記憶があるわけではない。子供の頃、ほとんど、家に来る米兵の前に私は抵抗して姿を出さなかった。

 

シカゴの空港にダン ケルパーは待っていた。

 

小柄な小太りのおじさん。無口な男。その家に着いたとき、私がかつて絵を描いた3人の子供が青年になって私を迎えた。

 

そのひとり。一番かわいらしい顔だった長男ジミーを見て、私ははっとした。脳性小児麻痺で寝たきりだった。この人は病に苦しむ自分の子供を抱えて、敵国日本の戦火の中で貧困に苦しむ私たちを助けてくれたのだ。しかも10年間。

 

松葉杖を付くジミーの写真を見たことはあったが、まさか、言葉に障害を持つ事まではしらなかった。しかも成人して、寝たきりになっていたとは。

 

感動で声が声にならなかった。人は自分に苦悩を抱えてはじめて人の苦悩を理解し、連帯する。深い思いをむねに、私は姉のすみかのあるカンサスに向かった。

 

「姉の家」

 

姉はカンザスの州都、トピーカと言う所に暮らしていた。義兄は精神科医で、東大の学園紛争から逃れて、アメリカにわたって数年してからアメリカの精神医学会の頂点にあるとか言うメニンガークリニックのスタッフになった。東大とアメリカで、二つの博士号を持つ。今は案外知られた医者らしい。私が訪ねた当時、日本で2人の子供ができて、もうひとりはアメリカで生まれたばかりだった。

 

母がいつ姉の所に行ったのか正確な記憶が無いが、私が修道院を出るのと入れ違いだったと思うからほぼ1年半、姉と共に暮らしていた事になる。私の覚えている上の二人の子供たちは、日本語と英語がごちゃごちゃ混ざるような状態で、しかも別の地方から引っ越してまもなかったから、あたりに知り合いも少なかった状態だった。

 

だから、日本からの客の私の来訪をとても喜んでくれて、はしゃいでいた。

 

上の姪に着物を着せてあげようと思って私は手ごろな七五三の着物を買って持っていったら、其れは其れは喜んだ。スペインに行った時から、例のマドレにそそのかされて、私はこの子に衣類ばかり送っていた。同じ年に生まれた兄の子達をふくめて3人の中で一番私が可愛がっていた子だった。

 

2番目の坊やは、とてもおとなしい優しい子だ。元気な姉におされていつも泣きつらをしていた。母は生まれた新しい赤ん坊の世話をしていた。申し分無く幸福そうな一家だった。

 

私はこの姉と、生まれたときから、うまく行った事が無かったが、この訪問のときほど、彼女の顔が穏やかで幸福な顔を其の後見る事は無かった。

 

本当は、母が日本に帰るから迎えに来てくれと言っていたから腰をあげた旅ではあったが、幸福そうな様子を見ると、これは母が帰りたいのでなくて、多分私にこの様子を見せたかったのだと考えられた。

 

その証拠に、帰国の話しは何も出ず、母は孫達を可愛がっていたし、孫達も祖母を愛していた。帰れないのは生まれた赤ん坊の所為にしていたが、心中は案外、赤ん坊の世話が満足で嬉しそうだった。

 

姉が地方紙に載った写真を見せてくれた。姉の一家の新しい赤ん坊の洗礼式を報じた記事だったが、なぜそんなプライベートな事が話題なるかと不思議だったので、その記事を読んだ。

 

赤ん坊に洗礼を授けたのは、何と、遠く昔私が生まれる前に家族が暮らした満州時代、両親と、私の9人兄弟のうちの6人の洗礼にたちあった老神父だった。母は満州時代の神父さんと再開したのだ。記事には、祖母と娘と孫の3代にわたって洗礼を授けた神父と言う見出しになっていたが、本当の所は3人とも違う神父から洗礼を受けている。

 

私は姉一家のそのときの幸福な姿を確かめ、母に1000ドルばかりのアパートの家賃を渡して、学園の2学期の始まる直前に私は日本に戻った。