Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」7月20日

 

孤立の中で(4)

 

「ポンチンとの出会い」

 

「日本の嫁がへたばっている。」何かを察した舅が、いろいろと気遣って、食物を運んで来たり、私が好きそうな珍しい植物を持ってきてくれたりして、気を遣ってくれた。彼は「原住民の勘」で、私が好きなものを知っていた。この舅の「勘」は、かなり霊感に近いことを私はそのうち知るようになる。

 

あるとき、舅は、家に飛び込んできたという、小さなすずめを持ってきた。その雀は面白いことに雛鳥ではなかったのに、初めからよく懐き、ぜんぜん逃げようとしないで、外に飛んで出てもすぐに帰ってきた。飼うでもなく放すでもなく、しばらくその雀と付き合って暮らした。名前をポンチンと名付けた。

 

私はポンチンの動きに釣られて、ベッドからだんだんと起き上がり、いすに腰掛け、庭に出て、植物の成長に目をやり、心からその小さな生き物に愛情が沸いてくるのを感じた。ポンチンはひらひらと家の中を舞っては、私の肩に止まり、手に止まり、餌をねだり、チイチイと鳴いて、楽しみをほとんどなくしていた私を、慰めるようにして、生き返らせてくれたのである。

 

私の体が著しく弱くなってから、エノクは一人のお手伝いさんを雇った。

 

食事だけは自分で作ったが、買い物、掃除、後片付け、洗濯などの家事のため、人の助けが必要だった。パティオのはずれにある女中部屋は一般の家で見たことのある女中部屋よりまともで、ベッドがひとつ備えられているだけだったが採光もよく、自分でも一人なら住んでもいいような部屋だった。

 

前住んでいたコロニアニカラグアの通りの知り合いの家で、私は女中部屋と称する場所を見て、ショックを受けたことがあった。庭の隅に犬も住まわせたくないような屋根の崩れた物置小屋があって、電灯はもちろん、ベッドもなかった。藁みたいな物やぼろを積み上げて、寝るための空間を動物の巣のようにこしらえているだけで、あれを見た時は、この国の使用人に対する扱いにギョッとしてしまったのだ。

 

私はすでに去っていった日本人から女中のことを聞いていたし、彼らは往々にして、この国の女中なんだから、私たちだってこの国の女中扱いのやり方に準じてもいいと思っていたらしいことを知っている。それを批判することもないのだろうけど、相手も「一応人間」のこととして聞けば心が痛んだ。

 

それで、私はこの初めての使用人の経験に、かなり気を遣い、食事も同じものを同じ量だけ3人で分けるようにしたし、家に帰るときは古着でもなんでもほしがるものを持たせた。休憩時間も十分与え、乞われるままに夜学にも通わせた。

 

日本人から、「女中は目を離していると、隙を狙って家の中のものを持っていくので、下着にも靴にも、すべて番号をつけておくようにしている」というすごい話をきいたからだ。

 

あの日本人たち、毎日たんすを調べてパンツ1号がない、ブラジャー3号はどこに行った、なんていって苦しんでいたのだと思うと、ひどく滑稽だが、盗られる前に一枚も持っていない人に古着の一枚くらい上げればいいのだという考えは湧かなかったらしい。

 

エノクの実家では、身寄りのない、まだ学齢にある子供を使い走りに使って、その代わり学校に行かせたり、衣食住の面倒を見たりするという方法をとっていた。あのうちに身分の不明の子供が時々いるのを不思議がっていたが、そういう事情の子供たちで、養子にしているわけではなかったが、子供たちは姑を「お母さん」と呼んでいた。

 

私はそういうことなら親のいない子を預かって教育などをしてみたかったが、当時は体が言うことを聞かなかった。

 

はじめの女中は丈夫でよく働いたが、何が気に入らなかったか3ヶ月もすると別の仕事を見つけて出ていった。ところで彼女はうわさどおり、内の古着を洗いざらい全部持っていった。彼女を迎えるために特別きれいにして備えてあげたシーツも毛布も、もともと家に備えられていた小さな備品も全部持っていった。

 

それで内が特別困るわけではなかったので、いいや、どうぞ、と思って私は彼女を見送った。基本的に、私はどうも善人の一種らしい。ってか、馬鹿かな・・・やれやれ。

 

それで主人は姑のところにいたマリという12歳の女の子を連れてきた。年端の行かぬ子供なので、私は喜んで彼女に学校の勉強も少しずつ教えてやった。学校を卒業させるのが目的でなく、電話の応対ができて、文字が書けて、メモが取れるだけで、女中の給料が上がるので、職業訓練のつもりだった。

 

しかし12歳にもなって文字に触れたこともなく、数字も読めないとなると、もう頭は勉強を受け付けないらしい。おまけに家族扱いにして食事をいっしょにしているうちにわがままになって、エノクが帰らないうちに自分の分を食べて、エノクが帰るとまたエノクに甘えてもっとせがむようになった。

 

エノクはそういう事情を知らずに自分の分を与え、関係がまずくなってきたところに、その子は男を作って出ていった。(と、紹介してきた姑が言っていたけど、のちに成長してから会う機会があったときにそれとなく聞いてみたら、違うらしい。)やれやれ。

 

私にはやっぱり人使いは無理なのだ。すべての善意が裏目に出る。昔ここで暮らした日本人たちのように、賢くずるく、この地にいたらこの地の習慣に従い、何も疑問を感じないで、普通に振舞っていられなかった私は、やっぱり敗北してしまった。何事によらず常識を欠いていたから、なんでも片端から失敗した。でも、こっそり考えると、常識って、従わなきゃいけないものかね。。。

 

自分のそばには、再びポンチンだけが残った。ポンチンを手に乗せていると、なんだか体の奥のほうから不思議な愛情が沸いてきた。まったく何の気遣いも必要のない、ただ一方的にかわいいだけの関係が、この10センチに満たない小鳥を相手に生まれていた。

 

いきているなあ、ポンチンよ。ただかわいいだけの小さな命よ。ただ存在するだけで、お前はなんて私を平和にするのだろう。かわいいだけの、ほかに取り柄のない小さな命が私の心と体を癒してくれた。

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かすかに額に乗ったポンチンが見える、唯一の写真 

何気なく日本人が置いていってくれたミシンに向かった。グアテマラで買った布地を仕立てて、少し気分を引き立ててみたかった。ポンチンがミシンの動きを見ていた。チイチイと鳴いて頭に留まったり布に留まったりした。なんだか出来上がるのを待っているみたいだった。二日かけてパンタロンスーツを作った。赤がベースで白と黒の横糸を織り込んだすごくはでな衣装だった。この国に来て初めて作った衣装だった。

 

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ラビダの家のリビング

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ラビダの家の玄関先

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気まぐれに作った服
 

ポンチンや。できたよ。私はその服をきてポンチンに見せた。ポンチンは私の周りをくるくる舞って、うまいよ、きれいだよ、よくできたね、というように、チイチイ鳴いて、外に出ていった。

 

1979年11月30日、私は自分の体の中に、生命が誕生したのを異様にはっきりと感じた。何度も大病を患い、子供がほしくて見てもらった産婦人科の医者はもう子供は出きるまいといっていた。

 

でも、私は確かに自分の体内に生命の躍動を感じたのだ。生命をもたらすのは医者でもないし、コウノトリでもない。検診もしなかったし、その当時のエルサルバドルの医学で、決して反応の出ないはずの日に、私は生命の誕生を確信した。

 

今日がこの子の誕生日、私は日記にその日を書きとめた。

 

そしてその日、私のポンチンは外に出て、もう帰ってこなかった。私はポンチンを見送ってなぜだか知らないけれど、「ありがとう」とつぶやいた。