Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

「自伝及び中米内戦体験記」7月12日

 

 

(1)内戦の始まり

「不正選挙」

 

サンタアナに滞在していた1977年2月21日、エルサルバドルは大統領選挙で揺れていた。

 

私事にかまけていた頃なので、私はそのことがどういう意味を持つのか追求する心の余裕を持ってはいなかった。日本から送った荷物がその頃になって続々と届き始め、私はその整理に追われていたし、本の匂いをかいだので、やっと自分は「本のあるいつもの生活」が取り戻せるかと思って、心理的にかなり落ち着きを取り戻そうとし始めていたときであった。

 

私は36歳になっていた。私は結婚するためにこの国にきた。結婚相手と出会う前に、私はこの国の存在さえ知らなかった。ましてや内戦の真っ最中の国だなんていう知識は一切持ち合わせていなかった。

 

子供のときから私は本の世界に生きていた。庭の木に座布団をくくりつけ、そこを「巣」と称して、登って本を読んだ。そのとき以来の自分の人生を振り返ってみても、他の不安定要因は、もうある程度は当たり前だった人間だから、本さえあれば、日本にいたときとたいして変わりない日常を送れると思って、やっと「生きた心地」になり、本の世界に逃げ込む態勢になっていた。

 

その日はエノクが投票から帰ってきて、いつもより早く下宿に姿を見せたので、荷物の整理を手伝ってもらおうかと思っていた。しかし彼は汗と埃にまみれ興奮したただならぬ雰囲気をたたえていた。まるで日常的な話題なんか受け付けそうもない。

 

びっくりして、どうしたの?と聴いたら、なんだか、サンサルバドルが異常事態になってきたということだった。

 

「首都は緊張しているよ、」とエノクは言った。

 

「ここにいてよかった。首都はゴリラだらけだ。歩いているだけで、なんでもないのに尋問を受けて、まごまごしていると連行されるから、危険だからあんな所に住んでいられない。」

 

軍隊に反感を持っている庶民は、軍隊のことを「ゴリラ」と呼んでいた。本物のゴリラは容貌の所為で、強暴だと思われているが、エルサルバドルの軍隊ほどは、凶暴ではない。ゴリラには気の毒な表現だな、と私は思っていた。

 

「バスは首都から逃れる人で鈴なりで、途中の幹線もゴリラがうじゃうじゃいたよ。」

 

すごくこの国はゴリラに満ちているのだ。^^

 

首都サンサルバドルからバスに乗って、サンタアナの下宿まで、苦労して戻ってきたらしかった。日ごろスマートな姿をしていた彼が、シャツはよれよれ、靴は踏まれて泥だらけである。はだけた胸は汗まみれだ。まるで乱闘の中から体を引き毟って遁れてきたみたいな状態だった。

 

次の日彼は遅く帰ってきた。

 

「今回の選挙は今迄で一番最低だ。勝った勝ったと言っているけれど、政府は反対勢力の側の人々が田舎から投票場に行くのをゴリラを出して妨害して、投票場に行かせなかったんだ。」と彼は興奮して言った。

 

それで、首都は抗議する群集の暴動が起きて、それを取り押さえる為の軍隊の出動で、片っ端からしょっ引かれるから、危険が多くて歩けないという。彼の体全体から、まるで怒りで湯気が立っているみたいだった。

 

「サンタアナにいる限り大丈夫だが、サンサルバドルとの行き帰りが危険なんだ。地方から投票にこようとした村人たちの投票を妨害するために途中の道に軍隊を派遣したから、軍隊ともみあって死者も出ている。村人を投票所に運ぼうとしていた神父さんが、車ごと軍隊の襲撃を受けて農民や子供も一緒に殺されたらしいよ。」

 

「くそっ!」エノクは怒りに燃えて舌打ちした。「政府は民衆の投票が怖いんだ。」

 

村人が全部反対勢力って決まっているのだろうか、とのんきに私は考えた。雰囲気だけで「何か」をぼんやりと察することはできたが、実際には何が起きているのかわからなかった。テレビもラジオもその時はなかったし、スペイン語の新聞はまだ私には読めなかった。もっとも読めたとしても、「あんな報道はみな嘘八百だ」とエノクは言っていたのだが。

 

「結婚成立」

 

そのころの私は自分が仕事も家族も故国も投げ出して、人生を賭けた男と結婚が成立するかどうかということのほうが重要な問題だった。その男の国の政情が不安定であろうと、農民が殺されようと、選挙が不正であろうと、自分の心象風景の中に、そういう緊迫した事実は何も映らなかった。

 

私の目には、サンタアナの町は平和に見えた。

 

「普段通りの」人々の平穏な生活が滞りなく続いているように見えた。メルカード(中米の市場)はにぎわっており、おいしそうなメロンや西瓜を売る人々の呼び声に満ち溢れていた。日本では食べたこともない珍しい果物や野菜を見つけて試したり、必要な日常品を買ったりしながら、私はかなり自由に町を歩いた。

 

メルカードには珍しい色や姿の野鳥まで売っていた。野山に行ってただ捕まえてきて、ペットとして売りに出しているのだろう。手にしたものはなんだって売っちまうんだ。

 

現地人のおばさんが、その鳥にアグアカテ(アボカド)を食べさせていた。果肉がバターを思わせるような妙な木の実だった。アボカドなんてそのころ日本の市場に出回っていなかったから、バターみたいなものを食べる珍しい鳥だなと思ってそういう光景を眺めていた。

 

イグアナが、手足を縛った状態で売られていた。アルマジロも縛られた状態で、市場においてあった。ペットの扱いとしてはなんていう扱いだ!と思ってみていたが、あとで知ったことだけれど、イグアナもアルマジロも食用らしかった。それらのものを私はものめずらしげに眺めながら歩いた。彼が首都で見たような危険な状況は、この町ではまだ肌では感じ取れないように思えた。

 

彼もこの町を歩く時は、1年前に日本にいた時に見せていたような、子供のような無邪気さで、あちこち私を連れ回り、値下げ交渉をしながら買い物をする方法を教えてくれた。屋台で売っている食べ物はみんな一通り試してみた。彼の後にくっついて、妙なものばかり食べて歩きながら、私は心で納得した。何だ、日本で私が面白半分「ゲテモノ」のつもりで彼に勧めた蛙の姿焼きなんか、彼には「常識的な」方の食べ物だったのだ。上品なマナーを要求するような西洋料理のほうが、非常識だったのかもしれないぞ。

ひょうたんの底の一部を切って作ったような野趣のあふれたお椀に、チュコと呼ばれる灰色の飲み物を入れたのを買って路上ですすって味わいながら、そういうときは私は実に平和で楽しかっ。少なくとも自分達の「平和」を乱すものがなかったから。

 

「ほんとにこれはチュコだね」と彼は言いながらそれを飲んでいた。おいしいのだけれど、チュコとは「汚い」という意味だった。

 

町を歩いていると、彼が貧しい生活者に対して、柔和な表情を見せ、すぐに相手の好意を勝ち取る術に長けているのに私は気がついた。私が外国人だから法外な値段を吹っかけられないように私をここの人たちに紹介してくれた。

(写真は日本のヒョウタンのように器になる木の実)

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「目に見え始めた内戦」

 

町を歩くときは、危ないから気をつけるように彼が注意を促すから、特に気をつけて町を歩いてみた。小さな町なのだけれど、東西南北の見当も付かない、自分のいる場所がどこかもはっきりしない外国人だから、「危ない」実感はなかった。

 

しかし、ことさらのそう思ってみていると、サンタアナにも変化が起きていた。

 

街の角角に兵隊が目立つことが多くなった。そして、ちょっと2,3人でも集まっている若者を見つけると、兵隊は銃剣を突きつけて解散をさせていた。それはぼんやりとした私の目にも怖い光景に映った。特に兵隊は学生風の男たちが集まることに神経を立てているのである。

 

サンタアナには、首都にある、日本で言ったら、定めし「東大」にあたる、エルサルバドル国立大学の分校として、なんとか学部があった。後から知ったことだけれど、国立大学は反政府活動の温床で、血気盛んな学生が跋扈していたらしい。

 

ある時彼が興奮して帰ってきて、私にいった。彼が物理学の教授として教壇に立っている、首都のエルサルバドル国立大学本校の構内に集まっていた学生の列に、軍隊が発砲して何人も学生を殺したのだと。それは彼の教え子たちだった。そのとき学生たちは集会をしていたわけでもなく、別に武器を持っていたわけでもない、本と鉛筆を持っていただけだった。

 

彼は何度も何度も怒り狂って叫ぶようにいった。「学生はペンとノートと本しか持っていなかった。ただ、構内を歩いていただけだったんだ。それを軍隊が突入してきていきなり撃ち殺したんだ。」

 

政府は大学を反政府組織の温床としてみていて、特にリベラルな国立大学の学生に目を光らせていたのである。学長が殺され、反政府運動に走る学生は次々と「行方不明」になっていた。

 

後に私は残留日本人のある人物から聞いたけれど、セントロ(町の中心街)の広場から、人間の死体を賭殺場の豚のように、トラックに投げ込んで軍人達が運んでいくのを見たそうだ。死体は身元確認もされないまま、海に投げ込まれ、それが浜に打ち上げられた。海水浴場は、死体がぷかぷか浮いては打ち上げられ、惨殺体は、はげたかの餌食になった。

 

そのような場所に、「恐怖で」近寄れなかったが、後に日本に帰ってから、私はその証拠写真を、長倉洋海の写真集「地を這うように」で確認した。

 

そんな情報を見聞きし始めると、目は自然に「見えないもの」が見えるようになる。

 

サンタアナの町も、不穏な空気が漂い始めているように感じた。誰が見たって、一目瞭然の貧富の差、貧しい子供は靴はおろか服も着ていない。メルカードは活気があり、品物は豊富で新鮮だが、それを売っている人々は地べたに座り、生まれて一度も風呂に入ったことがないように見える。そしてそのそばで、子供は埃にまみれ、籠の中に眠っていたりする。

 

彼らはまさに動物以下で、買い物をする側の富める者はすべてを持っている。見てそれとすぐにわかる金持ちのおばさんが、泥だらけのおばさんの品物を意地悪く値下げさせて買う様子を見ていると、政治に関心があってもなくても思わず、知らず、憎悪を喚起するような光景だ。

 

その中で、市場で物売りをしていて、親しくなった現地人達の一人から、彼は私に皮のサンダルを買ってくれた。日本を出るときも、立ち寄った、姉の暮らすアメリカを出るときも、もう夏ではなかったので、私の靴は冬物だった。

 

この光景に考えさせられてしまった私は、そのサンダルがとてもうれしかった。貧しい貧しいプレゼントだったが、貰ったことのないクリスマスプレゼントをはじめてもらった子供みたいに、そのサンダルをはいて履き心地を試しては、喜んだ。皮製で手書きのような花が控えめについているその感じが、やわらかく、まるでサンダルが呼吸をしているようだった。先住民の芸術だなと私は思った。

 

はだしの足にサンダル一足、空腹を抱える貧しい物売りに、豊かな人々はトルテイージャ(中米の主食、とうもろこしの粉で出来た煎餅状のパン)一枚譲ろうとはしないと、民衆の話になると彼が激昂して言う。

 

私の新しいサンダルは、スペイン侵攻以来、虐げられてきた原住民の明日生きるための作品なのだ。

 

3月、とうとうLey Marcial(戒厳令)の発動となった。

 

「Ley Marcialってなあに?」と私は無邪気に彼に尋ねた。彼の言うスペイン語が私にわからなかったのである。

 

その言葉を辞書で調べても、私は戦後50年、院生時代ベトナム反戦デモに参加したことがあったとはいえ、他国の戦争に反対しただけの、平和日本からきた、本格的な戦争体制に関しては健忘症で無知な日本人として、そのときは何もピンとこなかった。

 

戒厳令って漢字に書いてみても、なんだか怖そうな感じは受けるが、それが数千人の死者につながるほどのすごい事件に発展する序章であったとは、そのとき夢にも思わなかった。

 

彼は、物を売っているおばさんや少年少女にいちいち優しい声をかけ、彼らとはすぐに仲良くなった。二度目に同じところを私が一人で歩くと店のおばさんや裸の子供達が、すぐに声をかけ、「インヘニエロは元気か?」などと言いながらよってきた。すごく親しそうに、「インヘニエロは僕らの友達なんだ」というような表情で、彼のために店のものを少し多めに私にくれたりしたものだ。

 

インヘニエロ(英語ではengineer)というのは、工学士の称号だが、この国では工学士の称号を持つものは大変尊敬を受けていて、名前を呼ばず称号で呼ぶのである。後でわかったことだけれども、日本と違ってこの国の大学制度では、簡単に入学できても、学位を取るのはなかなか難しく、彼と一緒に卒業できた仲間はたったの9人だといっていた。100人近くで一緒にはじめて一緒に学位を取れたのが9人なら、その9人は最高のインテリ階級になるだろう。

 

日本のように学位取得者を大量生産する国からは、まるで想像もつかないことだけど、下宿の仲間に聞いたことによると、インヘニエロは女性の結婚相手として第1位を閉める憧れの的なのだそうだ。

 

そんなこととは露知らず、私は彼と付き合っていた。彼は日本で出遭った最初から自分の学歴については一言も言わなかったし、私の学歴についても家柄についても一言も訊ねなかった。私には、学歴と家柄に無頓着な彼の態度がうれしくて付き合い始めたようなものだった。

 

昭和30年代40年代のころの日本は、お見合い結婚全盛時代で、実は私の高学歴は「お見合い結婚」の障害になっていた。彼は彼で「学歴」に群がってくる女性達にうんざりしていたのだ。

 

おまけに私は生まれて36年生きた日本で、いつも「異常な奴」といわれては苦しんだ。私は「普通の」人間になりたかった。彼は、どんなに努力しても「普通の」人間として認められなかった私に、「変える必要は何もない、そのままが良いから好きなんだ。」と言ってくれた実に最初で最後の「人間」だった。

 

何も変えなくても受け入れてくれる人と出遭ったことを、神の啓示のように感じて喜んだ私は、全てを投げ打って彼についてきた。彼がどういう育ちのどういう身分の人間か、全く気にしなかった。実家の家族から「馬の骨」と言われようが、「ぼろぼろになって帰ってくるだけだぞ」と言われようが、何も聞えなかった。言われるように、彼は「馬の骨」だったし、私も「馬の骨」だった。二人とも家柄も学歴も不問だと言うことに、無言の了解と連帯感があったのだから。(のちに結婚して面白いから「家紋」を作ろうと二人で言い始めた時、「馬の骨」を図案に考えた。残念ながらいまだに作っていない。)

 

「目に見え始めた内戦」

 

町を歩くときは、危ないから気をつけるように彼が注意を促すから、特に気をつけて町を歩いてみた。小さな町なのだけれど、東西南北の見当も付かない、自分のいる場所がどこかもはっきりしない外国人だから、「危ない」実感はなかった。

 

しかし、ことさらのそう思ってみていると、サンタアナにも変化が起きていた。

 

街の角角に兵隊が目立つことが多くなった。そして、ちょっと2,3人でも集まっている若者を見つけると、兵隊は銃剣を突きつけて解散をさせていた。それはぼんやりとした私の目にも怖い光景に映った。特に兵隊は学生風の男たちが集まることに神経を立てているのである。

 

サンタアナには、首都にある日本で言ったら、定めし「東大」にあたる、エルサルバドル国立大学の分校として、なんとか学部があった(何学部か覚えていないので^^)。ところで後から知ったことだけれど、国立大学は反政府活動の温床で、血気盛んな学生が跋扈していたらしい。

 

ある時彼が興奮して帰ってきて、私にいった。彼が物理学の教授として教壇に立っている、首都のエルサルバドル国立大学本校の構内に集まっていた学生の列に、軍隊が発砲して何人も学生を殺したのだと。それは彼の教え子たちだった。そのとき学生たちは集会をしていたわけでもなく、別に武器を持っていたわけでもない、本と鉛筆を持っていただけだった。

彼は何度も何度も怒り狂って叫ぶようにいった。「学生はペンとノートと本しか持っていなかった。ただ、構内を歩いていただけだったんだ。それを軍隊が突入してきていきなり撃ち殺したんだ。」

 

政府は大学を反政府組織の温床としてみていて、特にリベラルな国立大学の学生に目を光らせていたのである。学長が殺され、反政府運動に走る学生は次々と「行方不明」になっていた。(「行方不明」=消された)

 

 

後に私は残留日本人のある人物から聞いたけれど、セントロ(町の中心街)の広場から、人間の死体を賭殺場の豚のように、トラックに投げ込んで軍人達が運んでいくのを見たそうだ。死体は身元確認もされないまま、海に投げ込まれ、それが浜に打ち上げられた。海水浴場は、死体がぷかぷか浮いては打ち上げられ、惨殺体は、はげたかの餌食になった。

 

そのような場所に、「恐怖で」近寄れなかったが、後に日本に帰ってから、私はその証拠写真を、長倉洋海の写真集「地を這うように」全写真1980~95;新潮社)で確認した。のちに私はエルサルバドル内戦の絵を描いたが、ある題材はこの写真集の中から採用している。

 

そんな情報を見聞きし始めると、目は自然に「見えないもの」が見えるようになる。

 

サンタアナの町も、不穏な空気が漂い始めているように感じた。誰が見たって、一目瞭然の貧富の差、貧しい子供は靴はおろか服も着ていない。メルカードは活気があり、品物は豊富で新鮮だが、それを売っている人々は地べたに座り、生まれて一度も風呂に入ったことがないように見える。そしてそのそばで、子供は埃にまみれ、籠の中に眠っていたりする。

 

彼らはまさに動物以下で、買い物をする側の富める者はすべてを持っている。見てそれとすぐにわかる金持ちのおばさんが、泥だらけのおばさんの品物を意地悪く値下げさせて買う様子を見ていると、政治に関心があってもなくても思わず、知らず、憎悪を喚起するような光景だ。

 

その中で、市場で物売りをしていて、親しくなった原住民の一人から、彼は私に皮のサンダルを買ってくれた。日本を出るときも、立ち寄った、姉の暮らすアメリカを出るときも、もう夏ではなかったので、私の靴は冬物だった。

 

この光景に考えさせられてしまった私は、そのサンダルがとてもうれしかった。貧しい貧しいプレゼントだったが、貰ったことのないクリスマスプレゼントをはじめてもらった子供みたいに、そのサンダルをはいて履き心地を試しては、喜んだ。皮製で手書きのような花が控えめについているその感じが、やわらかく、まるでサンダルが呼吸をしているようだった。先住民の芸術だなと私は思った。

 

はだしの足にサンダル一足、空腹を抱える貧しい物売りに、豊かな人々はトルテイージャ一枚譲ろうとはしないと、民衆の話になると彼が激昂して言う。

★トルテイージャ=中米の主食、とうもろこしの粉で出来た煎餅状のパン

 

私の新しいサンダルは、スペイン侵攻以来、虐げられてきた原住民の明日生きるための作品なのだ。

 

3月、とうとうLey Marcial(戒厳令)の発動となった。

 

「Ley Marcialってなあに?」と私は無邪気に彼に尋ねた。彼の言うスペイン語が私にわからなかったのである。

 

その言葉を辞書で調べても、私は戦後50年、院生時代ベトナム反戦デモに参加したことがあったとはいえ、他国の戦争に反対しただけの、平和日本からきた、本格的な戦争体制に関しては健忘症で無知な日本人として、そのときは何もピンとこなかった。

 

戒厳令って漢字に書いてみても、なんだか怖そうな感じは受けるが、それが数千人の死者につながるほどのすごい事件に発展する序章であったとは、そのとき夢にも思わなかった。

 

「日本人補習校」1

 

いろいろな出来事が目の前を過ぎていき、サンタアナの生活もやっと慣れてきて、そこで私は、日本から持ち込んだ本だけを読む生活に、そろそろ疑問を持ち始めた。

 

私は18歳で苦学生になってから、仕事を持たないときはなかった。私は18歳以後、誰の被保護者でもなくなって、兄たちの独立後を受けて、母を支えて生きてきた。だから、いくら一人の男を慕ってすべてを放棄して地の果てまでやってきたとはいえ、ぼんやり暮らすことに耐えられなかった。

 

そこで私は、4月から自分の今までやってきた経験を生かそうと考え、日本大使館を訪ねた。日本人補習校という教育機関の一種があるはずだと思っていた。そこは、帰国子女受入れ専門校で、在外日本人学校の事情を少し知っていた。

 

エルサルバドルの日本人補習校は小規模で、土曜だけ開校であり、教師はとりあえずエルサルバドルに滞在中の日本人というだけで、教師でもなんでもなかったから、私は資格を持って採用してもらおうと交渉したのである。

 

交渉はうまく行き、日本人補習校で、国語を教えることになった。相手は小学生だったが、必要とされるのは国語の教科だけだったので、私には都合がよかった。

 

週に一度私はバスに乗ってサンタアナからサンサルバドルまでの道のりを、埃にまみれて通い始めた。私は東京で高校の教師をしていたが、小学生に教えるのは、学生時代の家庭教師生活で慣れていた。

 

ただし小学生を相手に、個人ではなくて大勢一度に教えることは初めてだったから、念入りに授業の予習をしなければならなかった。それは、「することがなくて退屈していた」私には、適度の緊張感を刺激し、むしろ「楽しい」事であった。

 

補習校から渡されたものは教科書しかなかった。教授資料は「幸いながら」なかったから、自分で補助教材を作ることができた。少し子供たちが興味を持てるように、1年生には、自分で童話などを作ってみた。3年生のためには小さな詩を書いた。9月に学芸会があるそうなので、脚本も作ってみようと思っていた。

 

「何もない」ということは、「何でも可能だ」ということに他ならない。才能の有無にかかわらず、「試すこと」は無限だと考えた。それで、家事以外のすべての時間をこの補習校のために使おうと思った。

 

馬の骨との結婚を決意し、人生の進路を大きく変えて太平洋を越えてきたそれまでのいきさつから、あまりにも心が不安定だったから、この子供たちとの交流は、うれしかった。

 

補習校を通じてだんだんと日本人社会と付き合いができて、いろいろな人を知ることができた。特に、私と同様の国際結婚組みとの出会いは、情報交換上うれしかったし、企業から派遣された日本人社会の人々より、もっとじかに庶民に接している青年海外協力隊との交流も始まって人間関係が豊かになった。

 

「結婚生活開始」

 

30代までそれぞれの人生を生きてきた二人の人間関係や書類上の、さまざまな難問をかいくぐって、1977年5月に、やっと正式に二人の馬の骨同士の結婚が成立した。それはサンタアナでもない、サンサルバドルでもない、小さなの村の古びた市役所だった。必要な二人の証人は、たまたま市役所に来ていた庭師の爺さんであり、二人とも、顔も名前も記憶にない。

 

馬の骨二人には、東京で出遭って結婚の約束をした彼が日本を去るとき、お互いに確認した事項がある。

 

それは、もち金を無駄に使いたくないので、結婚式も指輪も要らないから、いつか必ずガラパゴス諸島に一緒に行こう、という約束だった。だから、結婚の立会いに、私はともかく彼の親戚縁者も友人も誘わなかったのだ。(ガラパゴス諸島へのあこがれは、私の「記紀神話考」研究の果てに行きつくところだったが、「記紀神話考」そのものを読んでもらわない限り、その経緯は説明できない。)

 

市役所で名ばかりの式をやり、届を出したその足で、晴れて夫となった彼は、自分の友人の所有している海辺の別荘を借りて、簡単な「新婚旅行もどき」をした。新婚旅行というよりも、結婚式をやった村からサンタアナに帰る途中、ちょっと友人の別荘に寄って週末の休暇を過ごしたという、軽い骨休めの二日間だった。

 

別荘には管理人の家族だけがいて、私達はのんびりとハンモックに揺れて太平洋を眺めたり、海に出て波に乗ったりして遊んだ。管理人の家族は素朴で気さくな人たちで、二人の子供と遊んだりしながら、過ごしたやしの木陰の別荘は、その時はのどかで不穏な空気は感じられなかった。

 

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(写真の二人の兄妹は その別荘の管理人の子供たちだった。ところが内戦たけなわのころ、武装勢力の襲撃を受けて、この二人は命を落としたという。あの時私が一緒に撮った写真を見て、私は心えぐられ悲しんだ。この写真は永遠に、記録しておきたい。)

 

7月になってから、私達はサンタアナを引き払って、首都に小さなアパートを借りて、いよいよ二人だけの新婚生活を始めた。そこはコロニアニカラグアと言って、最高級でもなく最下層でもない、ほぼ中間の人々の住む町だった。かなり緑も多く、道路は現代的な舗装ではなくて石畳のある趣のある町だった。

 

近くには小規模ながらメルカードもあり、動物園や、サブロウヒラオ公園という日本人の名前を冠した広大な庭園も歩いていけるところにあって、落ち着いた雰囲気のきれいな町だった。

 

大家は隣接して住んでいて、なかなか上品な老夫婦だった。電話はその夫婦のところにしかなかったが、電話がないことは友人も知人も仕事もない私には、大して苦にはならなかった。

 

家は二階建てで、下に大きなダイニングキッチンと、仕切りはなかったが客間の空間がついており、後ろにパテイオもあって洗濯場と女中部屋も庭の隅にあった。

 

二階は一部屋で、大きなベッドを二つ入れてもまだ6畳ぐらいの空間が残るほど大きかったし、二階にも一階にもトイレとシャワーがついていて、二人だけの生活にしては十分過ぎる大きさだった。事務机がないのが困ったが、それは下のダイニングテーブルで間に合うから、しばらく我慢しよう。

 

 

客間のセットと、いろいろな家具を日本に帰国する日本人会で知り合った日本人から安く譲り受け、冷蔵庫とオーブンレンジだけ新しく買って、ひとまず家としての体裁を整えて、私たちの生活は滑り出した。

 

後で、日本から持ってきた大事な父の絵(私が9歳のとき死んだ父は画家だった)を飾り、金属製の天井まであるものすごい書棚を4台買って、私の書籍を収めたら、教師時代に住んでいた八王子のアパートの雰囲気が戻ってきた。

 

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璃子

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夏野菜
 

よしよし、これで、私らしく生きる地盤が整った!と私はすべての家具の位置を決めた後、腕組みをしてつぶやいた。

 

首都に引っ越してからは日本人補修校の付き合いを通じて、家庭教師を数件引き受けることにもなったので、出かけることも多くなった。家庭教師は小学校の全教科を引き受けた。それが私の唯一の心の安定要因になった。

 

彼らの多くはエスカロンという高級住宅街に住んでいて、車で送り迎えしてくれるので、まったく危険な目にはあわなかった。そして彼等日本人の家庭を数軒覗いて、この国の事情も少しずつ聞き出し、彼らの様子を知ることにもなったのである。

 

「主人の出張とフランシスコ」

 

10月になって、主人は学会とかで、二ヶ月ばかりイタリアに出張することになった。しかし、彼がその旅行のことを、はじめ、学会とも出張とは言わず、「自分の心の整理のため」といったことで、私はにわかに不安になった。

 

危険だ危険だといっているこの国に、方向音痴の私をおいて自分だけの「心の整理」に二ヶ月も出かけるとは何事だ・・・。

 

主人は結婚前に、一人の女性との間に娘を持っていた。彼に言わせると騙されてできたと言うことだが、騙されようが何が起きようが、子供というのは男女の行為なしにできないものだ。いくら女性が「ピルを飲んでいるから子供は作る気はない。遊びだ、遊びだ」と言ったから、乗って「騙されただけ」とはいっても、乗らなかったらできたりはしない。

 

私も女であり、一人の男を好きになって、野超え山超え太平洋を超えて一緒になる情熱を持って来たことを思えば、「騙して」子供を儲けることぐらいのことをする女だっていておかしくない。

 

ところで、その子の母親と言う人については、彼自身からも聞いたし、エルサルバドルに来てからは、彼の友人からも、家族からもいろいろなうわさを聞いた。

 

彼を「騙して」それで、うまく妊娠し、彼に結婚を迫って大暴れを始めた女性だそうだ。「だませば妊娠できる」というのがどうも腑に落ちないんだけど。まあ、女性側からしたら計画的なことだっただろう。

 

(この記述を発表のため添削していた当時、娘がエルサルバドルで大学生活していたが、娘によると、かの国の女性は、男を獲得する手段として似たようなことをするのだそうである。テレビのドラマでも日常的に女性が男を騙す手口は、すべてその手だそうだ。ドラマでは、生まれた赤ん坊のDNAの操作までやっちゃうそうで、要はどうやって、誰の精子で生まれた赤ん坊でも、とにかく結婚したい相手の子に仕立てれば、いいのだと、娘が言っていた。育ちが違う私には疑問だけど、今の日本を見ていると、なるほどと思うこともある。)

 

ところで、夫の友人の話では、かのドラマチックな女性は、彼を獲得するために、彼を自宅に監禁するやら、ピストル使って脅すやら、やることが劇的でもあり、映画的でもあったらしい。果ては幼い自分の娘に致死量寸前の薬を飲ませて、病気だ病気だと大騒ぎをし、彼の勤める大学の講義室にぐったりした娘を放り込むやら、なんだかあまり当時の日本では聴いたこともないことをしでかして、彼の仕事先で勇名をはせていたらしい。

 

話がこれだけドラマチックだと、こっちは、なんだか却って落ち着いてしまうから不思議だ。

 

困惑しきった彼は、大学で着いていた役職も一時やめて、たまたま募集していた日本の建設省の招きで、国費留学とはいえ、逃げるように日本に避難留学をしていたのだ。他人の物語としてはかなり面白いが、傍から聴いているだけでも、そういうやりかたで到底「愛情」ある結婚が成立するわけがない、という感想を私は持ってしまったため、落ち着いていられた。「結婚」というものが経済的背景と社会的背景の確保なら、「愛情」などどうでもいいのかもしれないけどね。

 

彼自身からもそういう事情を聞かされていたし、その女性の襲撃に戦々恐々としていた彼の家族から、私はまさに息子の危難を救う「救いの女神」のように歓待を受けていた。だからそのとき私は、その問題を、ほとんど気にしなくていいくらいに、考えていたのである。

 

そんなわけで私は彼の旅行の理由としてあげた「心の整理」と言う言葉に戸惑った。そんなすごいのが相手でも、私との結婚後になって、「整理」しなきゃいけないのか…。今60を過ぎて思えばそりゃァ、確かに「整理」が必要だったろうと思うのだが、そのとき若かった私は、「整理」を「未練」ととったから。

 

 

誰から話を聞いても、その相手は到底結婚の対象にならないと判断した夫の頭は正常だと日本人の当時の常識に生きていた私は思っていた。しかも、彼は「騙されて生まれた」娘への責任から、娘の名義で家を買い、カメラやその他の個人的な小物にいたるまで、彼女に譲渡し、「物理的な責任」を果たしたつもりで、裸一貫で私との結婚生活に踏み切ったのだった。

 

裸一貫なんて、別にたいしたことじゃない。その頃の私は、何度も「裸一貫」をすでに経験していた。

 

なんだか、先行き不安定になった心をもてあまして、私はがらんとした家で、一人になった。

 

500冊の本と、補習校の先生の仕事が、当座の私に残された。

 

そんなとき、一人の人物が私の家を訪れた。彼は私たちがここに居を定めてから、時々主人が招いていた教授仲間の一人で、主人の学生時代からの友人だった。物理学の学位を取るためのアメリカ留学も一緒だったし、大学の助教授としてもいつも一緒に歩いてきたという、主人の最大の親友だった。私が出す日本料理や、日本化した餃子などをこわごわ食べて、いろいろ日本のことにも興味を示し、案外親しくなっていた。名前をフランシスコという。主人の言に従えば、正直で剛直な男だそうだ。

 

彼は私に言った。エノクが留守の間、あなたを守ってくれるようにと、エノクに頼まれた。どんなことでも相談に乗るし、困ったことがあったら電話してくれれば、すぐに来るということだった。

 

そうですか、ありがとう、と私は言ったのだが、フランシスコが暇そうだったので、少し話そうと思い、中に入れた。

 

私はこう切り出した。「いったいなぜ30を過ぎた私を守ってくれなどと、主人はあなたに頼んだんでしょうねえ。買い物は近くでできるし、何とか言葉も通じるようになったし、日本語補習校の教師にもなって、その日本人の関係者もいろいろ助けてくれるので、私は主人の留守中なんとかやっていけますよ。」

 

ところが、フランシスコは話し出した。「実は自分の妻とエノクの娘の母親リタは友達同士なんだ。妻を通じていろいろな事をリタが言ってきた。

 

彼女はDEFENSAの秘書を味方にしているから、自分は必ずあなたをこの国から追い出して見せる。DEFENSAならどんなに頑張っても勝てるものはいないはずだと言って凄んでいる。彼女はその気になったらかなり危険な人だよ。DEFENSAは殺人集団だからね。」

 

その話を聞いたとき、実は一種の快感を感じた。自分は自分が恋に狂った相手を知っている。自分のライバルが、「まともな女」じゃなくて、こういう「最低な」奴で却って良かった。

 

今まで、話があまりに怪奇的なので、何が起きてもどうせ良いようになるさと信じて、すべてを夫任せで、自分の意見を表明しなかった私が、初めて抱いた、ある感覚であった。

 

私は今まで、義母があまりに口汚くリタのことを罵るのを聞いて、自分の息子に何も落ち度もなかったらこんなことにはならなかったじゃないかと、心の中で、いきまく義母を批判さえしていたのだ。私だって二十歳やそこらのうぶな女の子じゃない。なんだかすごい噂のあるあったこともない女性に、それほど対抗心などわかなかった。

 

しかし私はその「DEFENSA」という言葉を聞いたときに、夫が彼女を選ばなかった理由にはっきり初めて気がついた。

 

そうか。「DEFENSA」か。と私はつぶやいた。「DEFENSA」というのはエルサルバドル政府の抱える国家警察である。アメリカのCIAの殺人部隊から軍事訓練を受け、政府に反する(つまりもちろん反米)と見たものに対する容赦ない殺戮集団として、内戦の全期間に実に20万人もの無辜の民を虐殺し、遺体を海に放り込んだり地下に埋めたりした、政府公認の殺人部隊である。(数字は確かなものではない。とにかく殺せば即、海に投じたり焼いたりするので、本当の人数など確認できないのだ。)

 

そのとき私はその事実をまだはっきりとは知らなかったが、「DEFENSA」の名前を聞いただけで、泣く子も黙る公安部隊であることだけは、知っていた。日ごろ柔和な夫が、その名を聞いただけでいきり立ち、民衆を弾圧する組織として度々口にしてからだ。

 

そうか、リタは「DEFENSA」の仲間なのか。私は再びつぶやいた。

 

私はサンタアナの町で見た夫の姿を思った。民衆の苦しみに対して見せるあの眼差しから、そしてボロを身につけた人々にも手を差し伸べて優しい言葉をかけ、同朋として接する態度から、そして、その民衆を弾圧する政府に対して、心を痛め怒り狂っている態度から、私は彼がどれほど民衆を愛し、国難を憂えているかを知っていた。

 

  

リタという女性は彼の愛してやまないその民衆を拉致し、監禁し、拷問の末殺し、死体を路傍に捨てる、そういうことをしている組織を「仲間」だといい、それを自分が自分のものにしたい男への脅しの道具として使う女性なのだな。一方に軍隊の暴力に苦しむ民衆がいて、一方でそれを利用し、優位に生きようとする腐った人間がいる。

 

まるでナチに協力したドイツの民衆のような奴だ。低級な腐敗した奴!私は彼女を、そのとき、「恋のライバル」としてでなく、政府の弾圧に協力して自分の利害を守る人間として意識した。なんだ、そんな奴!男の愛情をまともに獲得できるわけないじゃないか。

 

私はこのとき「私の心の内戦」を戦って生きようと思った。

 

「フランシスコ」、と私は言った。

 

「リタが『DEFENSA』を持ち出して、私を追い出すというのなら、私は受けてたちましょう。私は一人の男性と結婚しただけで、あなたの国の国家警察に狙われるような種類の行動は何もしていません。彼女に正義があるというなら、その『DEFENSA』とやらに頼らないで、正規の訴訟を起こして訴えればいい。

 

それをしないで、自分達の国の民衆を弾圧して裁判もせずに気に入らないものを殺す人殺し集団の『DEFENSA』を味方につけて私を脅すというのなら、自ら自分が正当でないことを認めていることでしょう。

 

それに、一人の人間から愛を勝ち取る手段として、武器を使い、殺人集団を味方にして脅迫し、自分の娘に薬を飲ませて囮として使うという神経の人間に、愛を語る資格はありません。

 

主人は、実に私と彼女と自分の弟の前で、たとえ私と結婚をしなくても、リタとは結婚の意志がないと宣言したのです。私が誰と結婚したくても、相手にその気がなければ結婚はできないのです。たとえ私を殺したって、リタは思いを遂げられません。

 

そういう人間を相手に私は逃げる理由もないので、ここにいます。あなたはそんな人物から私を守る必要はありません。リタはあなたの奥さんを通じて、わざわざ私に聞こえるように、そういう脅しを言って来ただけで、自分では何も出来ない腰抜けでしょう。本人がじきじき、その『DEFENSA』とやらの秘書を連れてくればいいのです。

 

いくら『DEFENSA』が殺人集団といえども、自国の内乱とも政治とも無関係の外国人の個人の問題に関与し、正規のルートで入ってきて、あなたの国の法律に従って結婚をした私を追い出すというようなことをするとは信じられません。何が起きるか拝見しましょう。これは私の問題でなく、あなたの国の誇りの問題です。」

 

フランシスコはあっけに取られていた。

 

「DEFENSA」の名を聞いて逃げも隠れもしない人間をはじめてみたというように。

 

そして、心配そうに早口に言った。

 

「リタと言う人は危険な人物なんだ。自分の意志を通そうと思ったらなんでもやる。エノクを引き寄せる為に、自分の娘に致死量寸前の薬を飲ませて、『病気だ、病気だ』と言って大学に駆け込んできたこともある。娘の首に縄をかけて、殺すぞ殺すぞと脅したこともあるんだよ。」そういう彼の言葉を聞いて私は益々冷ややかになった。

 

「それで、あなたは、その人と、たとえエノクでなくても誰か他の男性とでもいいけれど、いったい結婚と言うものが成立すると思いますか?」

 

彼は黙った。感嘆したように私を見、「自分はエノクの友達として、あなたのことを心配している。ただそれだけだ。」と言って、その日彼は帰っていった。

 

後、私は大家のところに話にいった。「リタという女性が電話をしてくるかもしれない。その女性は『DEFENSA』を使って私を追い出すといっているけれど、かまわないで私にも取り次がないでほしい。私はどこにもいかないし、法規に背いてこの国にいるわけではないのだから。」

 

私は自分のパスポートに書かれた結婚証明の記事を見せた。「あなたの国の政府から正式な結婚だと認められた証明です。これによって私はあなたの国から滞在許可ももらっています。」

 

大家の老人はその書類に目を通さずに、押しもどして言った。

 

「私はリタを知っていますよ。奥さん、何回も彼女は電話してきています。あんなみっともない脅し文句をあなたに知らせる必要ないと思っていわなかった。大丈夫、私はこの国も国家警察も男女の問題に首を突っ込んでくるような、そんな馬鹿じゃないことを知っています。私は退役軍人なのだ。」

 

かくして私の「内戦体験記」の序章は、リタとの戦いになっちゃったような妙な気分だった。