Ruriko's naisentaiken

エルサルバドル内戦体験記

娘の治療費カンパ

6月15日

日本は昨日が15日だった。15日とは、年金が支給される日。いまの私にとって、それ以外に意味がない。息をひそめて入金を待っていた。そこに届いたのが、年金機構からのお知らせ。松戸を発つとき、住所を海外に変更せざるを得なかった。主人の留守宅を守っていて、全ての書類上の仕事は私がやっている間は問題なかったが、主人の誕生月が5月で、現状届というものを5月いっぱいに出さなければ年金がストップしてしまう。

私は4月に急きょ立たねばならず、だれにもそんなこと頼めない。年金を扱っている社会保険庁に相談したところ、転居届を出せというので、国外転居の旨書類を出してきた。しかし、私は転出届を市役所に提出する時間がなかったため、市役所のほうは松戸市民のままだから介護保険料が取られる。其れは案外悔しい。

ところで社会保険庁から来たお知らせには、支給日が遅れると書いてあった。其れを読んだとき、私は慌てふためいた。

実は、とんでもないことが起きていた。ライフラインの引き落とし口座である主人の口座がマイナスになっていることを、三菱銀行から知らせられていた。何が何だか分からなかった。私はライフラインの引き落とし口座であることをいつも意識していたから、主人の口座を空にしたことなんかなかった。カードだって、主人の口座のカードなんか持っていない。問い合わせをしたところ、どうも国外からの引き落としらしい。だったら主人本人がやったことだ。

あわてていろいろ書類を照らし合わせてみた。それでわかったのが、娘のがん手を受けて、私の友人たちがカンパしてくれた全ての金額を、私は日本を発つ前に自分の口座から娘の名前でエルサルバドルに送金したから、私の口座はからっぽになっていて、どうにも融通が利かなくなっている。

ところでエルサルバドルに到着してから判ったことだが、娘が自分で書類を照合させて受け取りに行かない限り、だれが行ってもお金を引き出すことができない。娘は手術中で動けない。

支払いに困った主人が3回にわたって、日本の自分の口座から現金を出したらしい。其の3回の引き落としが、一挙に6月11日に決済になって、未払いの通知が来てしまったのだ。動かせるお金は私の口座にもない。頼みの年金が遅れる通知に、蒼白になったのはそのためだった。

私はすでに185万円の借金をしている。無職で年金暮らしの71歳。途方に暮れた私は返すためにいろいろな画策をして、すべて失敗した。原因はすべてさかのぼれば去年の債権詐欺によって老後資金をすべて失ったこと。自分の責任、自分の責任。

友人の個展の誘いの乗って、絵を描いてはいるが売れる保証はない。大体、帰国して生きていくための資金がない。こんなことで、帰国なんかしていいのか。

その時思い出したのが、手元に持っていた日本円6万円だった。おせん別やお見舞いにいただいたものの一部だけど、帰国するときの当座の費用のために私は換金しなかった。

私はとうとう、友人たちに目くら滅法メールを書いた。現在手元に6万円の日本円を持っている。主人の口座をマイナスでなく、少なくとも0にするために、誰かできる人、頼む。手元の6万円をかたに、どんな方法でも必ず返すから、主人の口座に6万入れてください。みっともないことを知っていた。非常識もわきまえていた。こんなこと許されないことも、そんなお人よしがいないかもしれないことも知っていた。でも必死の0作戦。

応じてくれる善意の天使がいた!ありがたい!と感じたら、どっと疲れが出て、正体もなく眠った。夜中に起きて口座を覗いたら、入金と同時に決済がなされ、きちんとあくまで0に近いプラスの数字に転じていた。良かった!とは思うものの、感情はまるで凍結していた。

ところが、それからしばらくして、朝になり、娘が自分のメールを覗いていて、けたたましい声を上げた。

何事?

娘が、ちょっと間をおいてから言った。SちゃんがSちゃんが!彼女もすごく興奮していた。

Sちゃんという、彼女が中高をともにした友人がメールをよこして、世界中に散らばっている同級生たちも含めて、みんなに娘の治療費のカンパを呼び掛けた、何か役に立ちたいと思って。。。

そこまで聞いたとき、私の涙腺が決壊した。涙燦然と頬を伝い、声をあげて泣き出した。ああ、やっぱり、ああ、やっぱりあの学校!ああ、やっぱりあの学校の卒業生たち!

娘が出た学校は、私が大学大学院を過ごした学校の姉妹校だった。札幌にある中高一貫校で寮生活者が多い。そこに一人娘を放り込んだとき、私には思いがあったのだ。

かつて、私は自分が出た大学など、評価していなかった。裕福な家庭の子女が多く、苦学をしていた私とは交友関係もぎくしゃくしていた。この馬鹿、といつも私は思っていた。学費値上げのことで、学長相手にかなり抵抗して、停学経験などを経ながら、肩いからして生きていた。学長とはいつも対峙していた。その当の学長が、学費免除で、私を大学院に迎えたときも、私は感謝などしなかった。免除された学費を私は就職第1回目の給料で返そうと思って、大学を訪れたとき、あの学長は言った。

そんなことを期待して免除したんじゃない。返せるものがあったら、社会に返せ。私ならいうであろう、「馬鹿野郎」とは言わなかった。

あいつは私より上だった。あいつはやっぱり教育者だった。私は尻尾を巻いて引きさがり、はじめて彼女の後姿に一礼をした。

内戦の巷から、日本に帰った1年後、エルサルバドルに大震災が起きて、首都が壊滅した。私は友人だとも思っていなかった同級生から、あなたのご主人の国が大変な災害にあっているなら、みんなで助けよう!という声をかけられた。彼女たちは同窓会を動かし、100万円の寄付を集め、私に手渡した。このお金はあなたに託すから、もっとも貧しい、最も救済の必要な人に、あなたが知っている最善の方法でわたしてほしい。

私はその時感動し、はじめて自分の母校の教育を受けた人々の育った姿に涙した。その後再びエルサルバドルに大震災が起きたとき、私は油絵を描き始めていた。友人たちは再び終結して、私をそそのかした。絵を描いて売れ!必ず協力者がいるはずだ。

半信半疑、私は初めての個展をやった。その時はすでに二科展に関与していたし、私の絵のテーマである「内戦の語り部」絵画も数点展示できた。小中高大学の同級生が集まって見に来てくれ、実にその時、23枚の絵が売れた。いくらなんでも!

いくらなんでもこれは私の実力じゃない、そう思った私は、売り上げのすべてをエルサルバドルに寄付した。手数料も、経費も何も取らず。そのお金は日本人協力隊に教育を受け、日本人と結婚して神戸に住む彫刻家の手を通して、エルサルバドルに届き、学校建設の一部になったらしい。

私はあのけんか相手の学長の最後の言葉をこうして成就した。

娘が今朝読んだメールで、同じ系列の学校で学んだ娘の同級生のカンパの報を知った時、私はこのすべてを思い出した。

涙燦然、私の膝は濡れそびれ、嗚咽が窓を揺るがした。