肌色について
日本人は人間の体の色のことを「肌色」という。まあ、日本人にとって、人間の肌の色は黄色人種の肌の色。白いのは「白人」黒いのは「黒人」と呼んで、あれを肌色とは言わない。ぶちや縞々があったら面白いけど、あまりいないね。
ところで日本人が古来「鬼」と呼んでいた生き物、あれたぶん「白人」だね。肌が赤いけどね。白いのは怒ると赤くなるし、顔も鬼に似ている。
私が大学にいたころ、学長は白人でね、白いというより赤かった。あれは肌に色がついていないから中の肉の色だったんだと思う。誰も赤人とは言わなかったけど、赤かった。でもさ、色がついていない人種ってなんであんなに凶暴なんだろう。
まあ、昔海を荒らした海賊も白人だったらしいけど、結局白人がこの地球を支配しているのかな。神様には色がないと思うけれど、白人の表現する神様はやっぱり白人みたい。
日本の神様たち、精霊だから色がない。よかったね^^。
欧米の人間の名前
日本人の本来の名前
源 九郎義経 という日本の歴史上の名前がある。普通は義経と呼んでいる。九郎は、兄弟の順位であって、太郎、一郎、次郎、三郎も兄弟の順位で、他に名前がある。第3子に太郎とはつけない。これは現代のことでなく、明治以前の話。
キリスト教国にも名前が二つ以上ついているのは、あれは順序でなく、洗礼名。兄たちは、ルイ、ルカ、ペテロ、レオ、ヨハネという洗礼名が付いていて、実は家族の中では洗礼名で呼び合っていた。でも、どういうわけか女子は日本語名で呼んでいて、洗礼名で呼び合ったことはない。私の名前はマリアルイジアナってんだけど、漢字にすると類似穴になっちゃって、かっこわるいからかな、よばれたことはない。
クリスマスの花
なんだっけ、これ。最近なんでも忘れる。主人に聞いたら、ハイビスカスだという。まさかね。
これもクリスマスによく飾る花。なんだっけ。主人に聞いたらフラフラいってる。フラフラって名前の花あったっけ。
これは玄関飾り。
やれやれやっと復帰
ひと月以上、ぼーーっとしていた。いやいや、今でもぼーっとしているけど。
でも寝て暮らすと、体力可笑しくなって、熱がなくなったからといって、歩くのもやっと。でもぺリコはずっと私と一緒だった。
具合悪い時って、寝て本を読むこともできない。買った本が2冊ばかり積ん読してあるんだけど、なかなか手にする気が起きない。「アメリカ帝国滞米50年」てやつ。
面白そうだから買ったんだけど、内容が濃そうで、まだ始められない。
英国のばあさんが死んだってね。私にはどうでもいい事だけど、世界にとっては大ニュースらしい。あの世界覇者王国の大将をマスコミがどういったって、私には響かない。まあ、世界統一言語を作った王国だから、それなりの意味は深いね。
でもマスコミが盛んに、日本の皇室との関係が素晴らしかったなんて報道しているけど、それが嘘だということを私は知っている。無色人種で、有色人種を人間としてみる国なんてない事を私は知っている。メラニン色素がないとなんでああ、凶暴になるんだろうね。逆にメラニン色素が多いことを欠点だと思っている人々が、黒髪を金髪にしたり、黒目に青グラスつけて白人に媚びたりしているバカがでてきてうんざりよ。
日本語もカタカナ語が増えて元国語教師としては、意味不明な会話についていけない。私もそろそろくたばる人種だわ。
改定「仏教との出会い」(7)(8)
改定「仏教との出会い」(7)
「輪廻転生と終末観」
ある時、私は例の仏教のチャット部屋に入ったら、部屋主の札幌男がメンバーを相手に、仏教の講釈をしていた。アングリマーラとかいう人物の話だった。彼はアングリマーラが特に好きらしくて、よく、話題にしているが、彼の話の帰結がどうもあやしくて、あまり興味を惹かれなかった。
ところがその時は、どういうわけか、打たれるログをじっと目で追っていた。
そのアングリマーラとは、本来はまじめな男だったらしい。ところが、彼は仕える主人から誤解を受けて、命令によって1000人もの人を殺した男だそうだ。で、紆余曲折の末、一念発起して釈迦の教団に入ったという。
で、その男、入団してから町に托鉢に出るたびに、彼に親族縁者を殺されて怨念やるかたない町の人々から、お布施どころか石を投げられ、罵倒され、いつも血だらけになって教団に戻ったのだそうだ。
で、札幌男によると、それを釈迦はよしとした。
釈迦がよしとしたのは、札幌男によると、罪を犯したアングリマーラが「今世」において罪の償いをしておかないと、因果が「来世」に響くからだそうだ。
私には、その因果だの来世だのがわからない。因果が来世に及ぶという考え方の根底にあるのは、輪廻転生思想だから、それがわからないと、ひどく、釈迦の態度が冷淡に思える。
へ~~え。人を殺したら、遺族から復讐を受ければ来世で、救われるのか・・・。だったらその「遺族」はどうなるんだ?復讐は復讐を呼んで、永遠に続くんじゃないの?そこにどんな救いがあるのかね・・・
と、私は考えながら文字を追っていた。
この話には、輪廻転生観が付きまとう。今世で罪の償いをしておかないと、来世で苦しむことになる、と言うのだから。
再び、札幌男の説明によると、輪廻転生観とは、人間をはじめ、生き物の魂は永遠不滅で、肉体を借りて生まれては死に、死んでは生まれ、六道輪廻を繰り返して、永遠にぐるぐる回っていると言うことらしい。
六道輪廻とは、 地獄界、 餓鬼界、 畜生界、 修羅界、 人界、 天界だそうだ。この六道を人間は永遠に、生きたり死んだりして、経巡るらしい。
それを悟りによって打破したのがお釈迦さんだと、信じられている。そんなもん、どうやって「打破」できるのか、「打破」すると悟りが開けるというけれど、そもそも「悟り」って何のなのだ。
輪廻転生など、信じたこともなく、悟りとは何を意味するのかも知らない私には、この手の物語はどうしようもなく理解不能で、むしろいかがわしい物語に聞こえる。それはちょうど、旧約聖書を読んだ門外漢が、キリスト教徒のことを、こんなおとぎ話信じている集団かとさげすむ感覚と同じだろう。
アダムとエヴァが楽園のリンゴを食べた、だから神様が彼らを楽園から追い出した。なんて話をそのまま信じ込むような、そんなもんかいなみたいな感覚を覚えた。
この世でこうすれば次の世でああなる、だからこの世でいいことすれば次の世でもいいことがある、この世でうまく 行かないのは、前世の報いだ、だからお墓参りしなさい、100万円の壷を買いなさい、という話が、輪廻転生の尻尾には付きまとう。現在世間をにぎわしている韓国生まれのあの宗教みたいな、この手の考えがさまざまないかがわしい新興宗教を生み出す元凶だと、私は考えていた。
で、札幌男の説明によると、アングリマーラを殺人鬼のまま放置しておくと、来世で修羅界とやらに追いやられて苦しむから、今世で、投石を我慢して報いを受けておくのが救いだと、お釈迦様が考えたことに成る。
これは先ほどから引用してきたキリストの「無条件の愛」とはまったく逆のやり方だな、と私には思えた。札幌男の解釈だと、釈迦の救いには冗談じゃないほど厳しい「条件」がついている。
私がその時、自分の人生の問題で、再び「石殺しの刑」と「キリストの無条件の愛」を見つめていた時だった。だから、このアングリマーラの物語も「罪ある人間」に「石を投げる」話なので、つい興味を引かれたのだ。
だから、私は以下のような考えを札幌男にぶつけてみた。
1)釈迦は死ぬほどの厳しい修行の結果、修行を放棄して悟りを開き、「輪廻転生を超えた」ことになっている。だいたい、この輪廻転生を「超える」って何のだ?超えたのに、何で輪廻転生を肯定しているんだ。
しかもなんで、「釈迦が自分で放棄した厳しい修行をしないと」のちの人々が悟りとやらを開かないのだ。そこのところがわけががわからない。
2)殺したやつは、石を投げられて我慢しなければ救われない、投石に耐えると救われる、そういうことなら、刑法と変わらないじゃないか。
この考えの中に、愛も慈悲も何もないじゃないか。殺したら殺されても仕方がない、そうすれば因果は終わって、悟りとやらを開くことができるというのかい。石を投げた群集のほうはどうなる。アングリマーラも、群衆も、まったく救われていないじゃないか。
そういうと、札幌男は、「仏教の生死観と、キリスト教の生死観は、次元が違うので、キリスト教徒のアンタにはわかるわけがないんだ」と、いって済ましている。
この言葉を全くの拒絶と受け取った私は、「そうかい、釈迦と言う男は、世界の半分の人間がわからない教えを説いたんだな!」捨て台詞を残して、 チャットの部屋を去った。
少し頭にきたので、その場に居合わせなかった、無関係な真宗男に、私はがみがみ抗議のメッセージを送った。
「仏教って冷たいね。アングリマーラはこの世で石で打たれて罪を償え、因果応報で自業自得だから、自分で石打の刑に耐えよというなら、慈悲って、どこにあるんだい。人間、めくらも、びっこも、らい病患者も、全部因果応報の結果を身に受けているんだから全員修行して、自らを救えというのかい。
イエスの時代のユダヤには、そういうのはみんな罪の結果だという常識があったんだぞ。仏教じゃ、それを因果応報と言うんだね。イエスはその常識を叩き壊して、律法や伝統的慣習や、常識に、愛を優先させたんだ。
釈迦と言う男は、だいたい、一人息子に『ラーフラ(障害)』などと名づけて、妻子を捨てただけあって、人間の弱さに対して冷たいね。結局自らの力で自らを救えと言うなら、釈迦がいてもいなくても変わらないじゃないの。つきあってらんないよ。仏教は、もうやめた!」
無関係な相手に、ちょっとむちゃくちゃな言いがかりだった。
イエスが救った罪の女の物語と、釈迦が救ったアングリマーラの物語は、本質的に関連がない。そもそも「罪の女」の「罪」の内容を、聖書には書いていないのだ。伝統的にこれは「姦通」だということに成っているが、「姦通」は女一人でするものではないのに、処刑されるのは女だけと言うのは、現代の感覚で見たら、不当である。アングリマーラは1000人の人間を殺した殺人鬼だ。到底「罪」の内容は比較にならない。状況がまったく違うのだ。
イエスは、人間性と愛を律法に優先させて女を救い、釈迦は多分、私がどうしても理解できない、「因果」にかかわって、アングリマーラを救ったのだろう。後に、釈迦が人間の女性を「小便袋」と呼んだ話を紹介するが、その時ほのかに、「因果」の意味に触れるまで、私はこのアングリマーラの物語を、胡散臭いだけの物語だと思い続けていた。
改定「仏教との出会い」(8)
「スッタニパーダ」の解釈
私にねじ込まれた真宗男は、へらへらと笑った。(ネットの中だから、実際はへらへらと笑ったかどうか知らない。でも打たれた文字から、私はそう感じた。)
そして彼は、あまり私の言葉の相手をせず、「勝手な解釈をする他人の言葉なんかにいちいち惑わされないで、原典に当たれ」といってきた。
そこで私は「スッタニパーダ」を読む羽目となった。
「ブッダのことば:スッタニパーダ」中村元訳、岩波書店。
上記の本をいつも行く図書館で見つけた。釈迦と弟子たちとの対話で、仏教の経典としては最も古いものである。
読み始めてしょっぱなから、おや!と思った。「~するものは、この世とかの世を共に捨て去る」と言う言葉が連句のように出てくる。怒り、愛欲、妄執、驕慢、固定観念、栄枯盛衰、妄想、虚妄、煩悩、などなどを捨て去るものは、「この世とかの世を共に捨て去る」のだそうだ。
ナザレのイエスが、すべての私有物を捨て、執着の足かせである家族も捨てて、「自分の十字架をとって我に従え」、と言った、あの言葉に通ずるものがある。
意味ありげな怪しい言葉が並んでいる。これはどういう意味だ。ひじをついて、じっくり眺めた。妄執ってなんだ?固定観念てなんだ?妄想ってなんだ?さらに、「この世とかの世」とはなんだ?「捨て去る」とはなんだ?矢継ぎ早に私は真宗男に聞きまくった。
「それだよ」、と真宗男は言った。
「釈迦はしょっぱなから、前世(かの世)今世(この世)も、永遠に続く輪廻転生なんてのも否定しているよ。みんなが仏教の考えだと思っている輪廻転生観は古代インドのバラモン教の考えで、バラモン教を超えたのが釈迦なのだ。札幌男が好きな、釈迦の前に梵天がひれ伏したという表現も、釈迦がバラモンの神々を否定したという意味だ。」
「えええええ?札幌先生は釈迦の前では神々さえも額づくほど、釈迦は偉大なのだと解釈しているよ。まるでヤーヴェが釈迦に降参したみたいに得意そうに、言っているよ」
真宗男はへらへらと笑って言った。
「いちいち変なのに惑わされないで、原典にあたれと言っているじゃないか。ほっとけ、そんな解釈。だから釈迦は妄想とか虚妄をうち掃えと、しょっぱなから言っているんじゃないか。釈迦はバラモンの妄想の世界にいたんだから、それをうち掃えという限り、バラモンに根差した輪廻転生感など、思考の土台にしていないよ。」
とすると、妄執、妄想、虚妄というのは、バラモン的輪廻転生?!!それを捨てるところに「この世とかの世」という妄想から解放される?
うっひゃっひゃ、こりゃおもしろいや~~。でも、それじゃあ、なぜ、日本で、その「虚妄」が復活しちゃったのだ・・・?新たな疑問が湧いた。
彼によれば、仏教における「輪廻転生」とは、人間一生の間に起きる、心の動きだそうだ。順境にあればいい気になって貪欲の限りを尽くし、逆境にあればうじうじ自己憐憫に陥って、人を恨んだりするのを「地獄界」の状態といい、貪欲を「餓鬼界」、愚痴を「畜生界」、怒りを「修羅界」、食欲・色欲・睡眠欲の他に名声・利欲の二欲を加えた五欲の世界で右往左往するのが「人間界」、成功して、「天上界」にいる気分でいい気持ちで遊んでいる状態も、ちょっとの隙があれば修羅道に陥る、そういうことの繰り返しが、現実の人生で繰り返して起きている、そういう状態を「輪廻」と言うのだそうだ。
おおおおおお!!!納得したぜ!
人生の終局で、それらの妄想を乗り越えたときに、多分、永遠の安寧が訪れるんだろう。そのことを、釈迦は「悟り」といったのかもしれない。
「だとすれば!」私は、突然聖書のあの有名なとんでもない箇所を思い浮かべた。ハルマゲドンの記述だ。
あまりにも詳細に渡り、あまりにも視覚的表現が生々しいために、世の終わりには、地震災害が現実に起き、死者が蘇り、偽のキリストが現れ、最後に人々を裁くために、本物のキリストが再臨する、そう預言されたところのハルマゲドン。
とんでもない似非新興宗教の教祖が、ハルマゲドンを演じるために、地下鉄にサリンを撒いたりするよすがとなった、あの有名な記事が意味するものは、これも、人間一生の間に起こりうる、人生のハルマゲドンではあるまいか。
(たとえば、先ほど余談で出したスペイン兵士の例は、まさに仏教における「修羅道」、キリスト教徒の心の中の「ハルマゲドン」状態だ。ところで余談だけど、麻原流ハルマゲドンがニュースになった時代、ハルマゲ丼という丼が出たの覚えている人いるかな。めっちゃ面白かったのに、人がそれで死んでいるから冗談止めろっていうんで、その丼、廃止になった。)以下参照
人間一生の間に、平和だった生活も、どんでん返しが起き、信じていた人々に裏切られ、愛する家族も離れていき、災害によってすべてを失い、詐欺師にだまされ、われこそは神だぞというものたちの出現に、引きずられて右往左往し、そして、最後に裁きの庭(これも実体じゃないだろう)に出される、そのことが、あの終末論の意味することではないのか。
もし両方とも、人間一人の一生の間に起きることと言う解釈が正しいなら、キリスト教の終末観はかなり刹那的な表現で、仏教の輪廻転生のほうが、よりよく整理ができているが、何も奇跡や輪廻転生を無理して「信じ」なくても納得がいく。
仏教は出身母体のバラモン教の同じ言葉を受け継いでいるために、誤解し混乱するが、それは、キリスト教のそれが、旧約の預言を意識して、重ね合わせた言葉遣いになっているために、混乱するのと同様なのかもしれない。この二つは、共に、人生上のさまざまな出来事だ。非科学的な妄想でもなく、本心では到底信じられないから、とりあえず信仰箇条として盲目的に唱えるというような行動をする必要もないのだ。そういう思いに到達した。
(アングリマーラの伝説について。上記はチャット内の一人の人物の語った話。アングリマーラの物語にはもっと深い前後がある。仏教の名誉のため^^以下参照。
http://www16.ocn.ne.jp/~housyuji/bukyo/bukyo7.html